日本語学習の動機 −日本との関係から考える−

教育学部1年生 久賀栞

(1) イギリスについて
日本とイギリスの関係に関して江戸時代以前から細々と交流を持っていたが、本格的に外交関係を持つことになるのは、やはり日本が開国した明治時代からになる。日本は鎖国中にオランダと中国のみと国交をしていたため、外国人と話すときの言語は専ら中国語とオランダ語であった。しかし、世界情勢を見てみると、18世紀後半というのは産業革命に世界で最も早く成功したイギリスが世界的に影響力を持つようになった時代である。世界で使われる言語は国の勢力に関係する。世界的には英語が最も使われる時代へと突入していたのである。開国直後の日本は不平等条約を改正するために一刻も早く国力をあげ近代化する必要があり、そのためには英語の習得が不可欠であった。当時の世界情勢を見ると、イギリスが世界で初めて産業革命を成し遂げたために世界的に影響力を持っていたため、日本においても英語の学習が本格化するようになった。さらに長い間鎖国していた日本がようやく開国したことで海外に夢を抱く日本人が外国人の集まる港町を訪ね、彼らから言語を教わるようになる。その過程で、日本人もまた外国人に日本語を教えるようになっていくのである。日本人が英語を習得していく中でイギリス人もまた日本語を習得していくようになり、その中で際立った活動をしたのがアーネスト・サトウであった。開国後しばらくは世界との通商のため、また国力を上げ近代化を成し遂げるために英語が学ばれていたが、のちに日本とイギリスの関係が変化していくことになる。日本は近代化を成し遂げるために中国の資源に目をつけ、日清戦争で勝利することで遼東半島などの利権を手に入れたはずであった。それを、三国干渉を通して阻止したのがロシアである。日本はその後ロシアとの対立を深めていくことになるが、その情勢を契機に日本とイギリスが接近していくことになる。当時ヨーロッパの方でイギリスがロシアの南進を警戒しており、ロシアと対立を深めていた。1878年に集結した露土戦争に勝利したロシアがサン=ステファノ条約によってブルガリアを保護下におくことを認めさせ、ロシアの南下は成功したかに思えたが、ロシアの南下を警戒したオーストリアとイギリスが反対し、ベルリン会議によってサン=ステファノ条約が破棄されるとロシアはイギリスへの反発を強めていくことになり、イギリスもロシアを一層警戒するようになった。他方日本は、三国干渉によって遼東半島の利権を放棄させられたことでロシアに対する世論が悪化を見せ、ロシアを撃破すべき敵として認識するようになり、満州を巡って対立することになる。同じ「ロシア」という敵を得た日本とイギリスは日英同盟を結ぶことになるのである。日英同盟を結ぶと、商業のみではなく、軍事や政治的にも二国間は接近することになり、より一層英語の必要性が増した。当時はイギリスの一強時代は終焉を迎えており、イギリスに次いで産業革命に成功したドイツやアメリカなどに国力や市場に出回る製品などの面で遅れをとることが目立っていた。アメリカもイギリスと同じく英語を公用語とするために世界的な公用語という面ではあまり変化は訪れなかったが、日本とイギリスの関係において日本人が日本語を学ぶ動機、イギリス人が日本語を学ぶ動機というものは変化していた。日本が日露戦争に勝利し第一次世界大戦を終えた後、1923年にアメリカの戦略によって日英同盟が失効すると、徐々に二国間の関係に変化が生じてくる。世界恐慌を大きな区切りとして「持てる国」と「持たざる国」に分割されたイギリスと日本は第二次世界大戦で対立することになる。イギリスの主な交戦国はドイツであり、日本の主な交戦国はアメリカであったが、戦時には諜報のためにイギリスでも日本語が学ばれた。第二次世界大戦が終結し、1951年のサンフランシスコ平和会議で日本がそれぞれの国と和解すると日本とイギリスの対立関係も解消され、新たな関係を構築することになる。その決定的な出来事となったのが日本の高度経済成長期である。1986年に発表された「パーカー・レポート」によると「世界貿易における日本の役割の増大と国内市場の漸次の自由化」がイギリスにおいて日本学習を活性化させる目的として挙げられている。日本が経済成長を成し遂げたことにより日本の経済力が飛躍的に増加し貿易において重要な位置を占めることになった。『英国日本研究会の見解』においても「世界第2位の日本経済の位置に鑑み、日本研究は英国の大学カリキュラムの中で重要な位置を占めることが望ましい」としている。つまり、日本の経済成長がイギリスの教育界における日本語学習を定着させたのである。現在、日本語はイギリスにおいて日本研究の手段としてや日本との貿易のために勉強されている。

 

(2)メキシコについて
 日本とメキシコの関係は16世紀、日本が南蛮貿易を行っていた時期に開始する。当時、メキシコはスペインの支配下にあったため、日本が南蛮貿易においてスペインと交易を結ぶことは、すなわちメキシコと交易を結ぶことだったのである。しかし、その後江戸幕府が支配権を握るようになると鎖国政策によってオランダと中国以外の国と交易することが無くなったために、再び日本がメキシコと関係を持つようになるのには日本の開国を待たなければならなくなる。日本が開国した1854年には、メキシコはスペインからの独立を果たしており、1888年の日墨修好通商条約を契機として日本とメキシコの関係は再開される。メキシコへの日本人の入植が開始され、移民となった日本人によって継承語としての日本語教育が開始される。榎本武揚らによる初のメキシコへの入植以降、日本人が入植したチアパス州アカコヤグア村にて照井亮次郎が設立した「日墨共同会社」が「暁小学校」を設立し、日本人の子弟らに日本語教育を行った。それが中南米で最初の組織的な日本語教育であったという説がある。
 その後第二次世界大戦にて日本とメキシコは敵対したが、サンサランシスコ平和条約で関係を修復し、現在に至る。メキシコと日本の関係で特筆すべき点は、日墨間の貿易関係である。2005年に結ばれた日本・メキシコ経済連携協定によって、日本とメキシコの交易額は飛躍的に伸びるようになった。以前と比べ、日本からメキシコへの輸出額が1.6倍、メキシコから日本への輸出額が2.6倍に増加した。そこで改めて見てみたいのが2015年度メキシコの「日本語教育機関調査結果 学習者数グラフ」(国際交流基金)である。前述したイギリスと比較してみると、日本語教育機関は「その他教育機関」に大きく偏っていることが分かる。これがイギリスになると初等教育、中等教育、高等教育の三つで80%以上を占めるのだが、メキシコは「その他教育機関」が全体の40%以上を占める。これは、メキシコが教育において日本語学習を進めているというよりは日本とのビジネスに利用するために、成人が日本語を学んでいると解釈できる。

 

(3)まとめ
 イギリスと日本との関係においては、第二次世界大戦の時イギリスは諜報という目的で日本語を学んだが、戦後日本が経済成長を果たし貿易相手国として重要な地位を占めるようになると、自らの経済発展と日本との貿易のために日本語が学ばれるようになった。またメキシコにおいては、日本・メキシコ経済連携協定が結ばれることで、メキシコ人の日本語学習が盛んとなった。以上のように、国同士の関係は日本語学習に多大な影響を与えるのである。

 

(4)意見
 日本で外国語学習がなされるときは、大体の動機は試験の科目として指定されていたり学校の方から学ぶことを強制されて学ぶことが多いと感じる。学校は国の示す指針におおよそ沿った教育を施しているため、国家間の関係が言語学習に影響を与えるのも当然と言えるだろう。授業中に先生がおっしゃっていたが、つまり見るべきは量ではなく質である。いくら国から外国語を学ぶよう指示されたからといって意欲が低ければ質が低く、あまり役に立つ人材ではない。何かしらの個人的な動機を持って外国語を学ぶ人たちが一体どの程度いるのか、彼らの能力はどれくらいなのかを見ることが大切なのだと感じた。ただ今回のメキシコとイギリスのように、日本語教育機関の割合を見てみるとそれだけでも二国間の間に大きな差が見て取れた。国同士の関係は外国語学習の実に幅広い場面に影響を与えているのだと思う。

 

(5)参考文献
・「国際基金 英国」(2019年1月20日閲覧)https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/uk.html
・「国際基金 メキシコ」(2019年1月20日閲覧)
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/mexico.html
・小川誉子美(2018)「3章 長崎・琉球・横浜 17〜19世紀」
・朝日新聞デジタル 「TPP11の次の一手は」(2019年1月20日閲覧)
https://webronza.asahi.com/business/articles/2018012500002.html?iref=pc_ss_date
・山川出版社(2014)「詳説世界史」p341
・「日本・メキシコ経済連携協定」(2019年1月20日閲覧)
https://www.jetro.go.jp/world/cs_america/mx/・jmepa.html
・「日墨EPA発効13年の評価」(2019年1月20日閲覧)
http://jp.camaradojapao.org.br/upload/files/20181022%20日墨EPA発効13年.pdf

©2014 Yoshimi OGAWA