唐通事について


                                                    汪俊文

 

はじめに
 江戸時代、「通詞」という制度が存在していた。江戸幕府は長崎で「長崎奉行」を設置し、その下通訳・外交・貿易の実務を担当する「地役人」ーーすなわち「唐通事・阿蘭陀通詞」が置かれた。オランダ語の通訳者は「阿蘭陀通詞」であり、中国語を専門にする通訳者は「唐通事」である。


唐通事という表記
 「通事」という職名は、「訳語」という通訳の職名とともに『日本書紀』にはすでにこの表記が見られる。「十五年秋七月大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利為通事」(推古天皇・巻二十二)に「通事」の訓として「曰佐(おさ)」という読みが使用されていた。また、平安中期の『延喜式』にも、「大通事・少通事」の職階まで挙げられている。つまり、「通事」という表記は、古代から使用されてきた職名であり、「事を通じさせる(通事)」という動作・行為が職名になったものである。
 下って、江戸時代にあたり、長崎の「ツウジ」には、唐話とオランダ語という2種類があり、それぜれ「唐通事」と「蘭通詞」と表記された。この区別については、おそらく「通事」が根源であって、区別の必要から二次的に「通詞」ができたと論証されている。また、「通事」や「通詞」以外では、「通辞・通訳・訳家・訳師・訳官・訳士・訳司」なども使用されていた。


長崎の唐通事組織
 最初の唐通事が置かれたのは1604年であり、その初代唐通事とされる人物はもと山西省出身で長崎在住の唐人の馮六という人である。日本の寛永年間(1624~1644)に鎖国令が敷かれ、長崎以外での唐船貿易は全面的に禁止され、すなわち、渡来してきた唐人たちは、地役人として唐通事の職を請け負った。この時期、公認されていた唐人貿易が重要視され、唐通事の増員、唐通事組織の整備もさかんになった。 
 この唐船貿易に関する唐通事集団は、創設以来幕末(1867年唐通事解散)まで約260年に亘って、延べ人数1644名(実数826人)がいた(杉本、1990)。この組織については、『袖海編』の記述によれば、「使院所屬之官有年行司通事官,有按察大通,副通,末席,稽古等,有内通事専供唐館之使令」のように、通事官職には按察大通事・副通事・末席通事・稽古通事などの区別がある。また、唐通事の職掌によって、通訳・翻訳事務を中心にする狭義の唐通事と、貿易事務と直接関係なく、唐人の滞在生活に関係ある広義の唐通事との二種類がある。つまり、唐通辞の組織の頂点は、本通事と呼ばれる大通事・小通事であって、また、唐人をルーツとしない、内通事と呼ばれる日本人唐通事も多数存在していたとされる。 
 ここで延いてまとめていうと、長崎の唐通事の特徴は以下の4点のように述べられる。⑴、長崎奉行の管轄下にある地方公務員として、長崎でしか仕事をしない。⑵、仕事の内容は通訳、入港の通関、貿易関係および外交、通商など多岐に渡る。⑶、公職として、階級・定員・昇格の試験が設けられている(十席程度の限られたポスト・実際に七十以上あったとされる唐通事家)。⑷、通事を勤める家は指定され、世襲制度を採っている(奥村、2007)。


唐通事と唐商
 寛永十二年(1635年)に、外国船の入港が長崎一港に限定され、元禄元年(1688年)長崎郊外に唐商の居住地として唐人屋敷を作った。唐人はここに入居後、唐通事をはじめ地役人たちによって厳しく管理されている。また『袖海編』によって、入居後の唐商たちは、入居中唐通事をはじめすべての幕府側の地役人の指揮に従わなければならないし、もし用があって出かけるときには、まず通事に申し出、立ち会った上出かけるという記述があった。
 一方、唐通事は幕府のためにつとめている長崎奉行所の地役人として、つまり日本側の役人と唐人の子孫という二面性を持っており、唐商側と日本側の間に立って、複雑かつ微妙な感情を抱えて、唐商の利益を保護するように心かけておりながら、職務遂行上の重要さも考量して、唐通事という仕事を果たすように活躍している。


唐通事と唐話のブーム

 「唐話」とは本来、渡来した中国人が日本に定住し、唐通事として守り継いできた言葉の世界であるという。しかし、それは狭い唐通事仲間内の言葉であることだけに止まらず、日本の儒学者や文学者にも広まり、次第に変質してゆかざるをえないという宿命を背負いこんでいた。
 江戸時代、中国から『水滸伝』を初め、たくさんの小説が海を越えて日本に伝来したが、当時の日本において、白話で書かれた『水滸伝』を読み解くことがかなりの困難があった。つまり、昔から中国の文言文章を読むための伝統的な「返り点」という読みくだす方法は、今はもう「水滸伝」のような新しい白話文学には通用しないのである。すると、この新しく出てきた言葉に対し、長崎唐通事が現れた。当時の内通事の中の岡島冠山による「水滸伝」の訓訳本が世に出ることにより変化が生じ、そのうえ後に江戸時代の唐話学習ブームにまで促した。


唐通事と江戸時代の文学・文化
 当時内通事の中の岡島長左衛門と言う人、すなわち岡島冠山が元禄十四年(1701年)内通事を辞職して、後に江戸や京阪で活躍して、ついに荻生徂徠の古文辞学派の「訳社」(唐話を学ぶために結成された組織)で「訳士」に任命され、徂徠を中心とした蘐園の儒学者たちに唐話を講じるようになった。彼はさらに十八世紀初頭の唐話学習熱(「唐話纂要」を編纂する)と「水滸伝ブーム」の到来の立役者(「水滸伝」に訓点を施す)として、中国文学が江戸時代の文学に与えた影響・江戸時代の小説が白話小説から受けた影響を論じる過程でよく紹介されている(奥村、2007)。この立場では、岡島冠山は唐通事の世界と江戸、京坂の日本人の世界との橋渡しの存在であり、後の江戸時代の文学状況と文化状況の変化を催すのに少なからぬ貢献をした人物であった。
 一方、「水滸伝」の伝来およびその訓訳は江戸時代の文学界に絶大な影響を与えた。それは単なる白話小説・外国文学として享受するのみならず、ひいてその手法、言葉遣い、枠組などを借りて、自らの創作に取り入れ、翻案しようとする日本人作家たちもこれにより現れて、「読本」という小説の形態が確立されるに至ったのである。
おわりに
 昔からの「通事」という職は江戸時代にいたって、「唐通事」として長崎における唐船貿易・唐人の管理業務を遂行することにより、日中両国間の通商・政治関係にとても大切な貢献を果たした。そのうえに、もともと唐通事仲間内の言葉である「唐話」は、時代の流れに乗って、次第に日本の儒学者や文学者に広まり変質していき、ついに後の江戸時代の文学状況と文化状況の変化を催したことから、言葉は単なる通訳・通商という効用しかないわけではなく、国家の間の文化交流にも莫大な役に立つことがわかる。


参考文献
・杉本つとむ(1990)『長崎通詞ものがたり』(創拓社)
・汪鵬『袖海編』(清)楊複吉輯『昭代叢書 續編 戊集』(呉江沈氏世楷堂)
・奥村佳代子(2007)『江戸時代の唐話に関する基礎研究』(関西大学出版部)
・喜多田久仁彦(2016)「唐通事の中国語について」(『研究論叢』、第87号)

©2014 Yoshimi OGAWA