フィリピンにおける日本語教育の変遷と

在日フィリピン女性の日本語学習に注目して


本間愛州佳

 

1.はじめに
 7,109の島々からなり、人口約1億98万人のフィリピン(外務省2019)では、1923年にフィリピン大学フィリピン言語学科で行われた日本語講座から日本語教育が始まった。在日フィリピン人は、266,803人と全体の10%を占め、在留外国人数は第4位(法務省2018)であり、特に「日本人の配偶者等」として在日する人が多い(法務省2018)。そこで、本発表では第二次世界大戦後のフィリピンにおける「日本語」教育の変遷と現状、日本人の配偶者として暮らす在日フィリピン人女性の日本語学習について、先行研究と「聞蔵Ⅱビジュアル」、さらに日本で生活しているフィリピン人女性への聞き取り調査から、考察する。

 

2.フィリピンの言語事情
 国際交流基金(2017)によれば、フィリピンは100以上もの言語集団をかかえる多言語国家であり、タガログ語をベースにしたフィリピノ語と英語が公用語だ。フィリピノ語は、公教育とマスメディアの普及に伴い共通語としての機能を果たしつつあるが、教育、学術界においては英語の占める役割が大きいという。中込(2016)は首都マニラで出会う人々は、地域語、フィリピノ語、英語の最低三言語を話すマルチリンガルであると述べる一方、マニラでの私生活圏で、日本語での会話持続可能な人に遭遇するのは稀であると述べている。フィリピンの言語教育は、フィリピノ語、英語に注目が置かれており、それ以外の言語教育は基本的には大学から開始するという。

 

3.フィリピンにおける日本語教育の変遷
 戦後フィリピンにおける日本語教育の再出発は、1964年にフィリピン大学東洋言語・言語学学科に日本語講座が開講されたことであり、1968年に在フィリピン日本国大使館広報文化センター日本語普及講座が開設され、急増する日本語学習者に本格的に対応することとなった(国際交流基金2017)。1970年代、フィリピン大学で教授していた森(1979)は、フィリピン人学習者について「日本人ツアリストが増加しているから、日本語を学ぶのは有利である」「外国語をとらないと卒業できないから、どうせのこと、一番お金になりそうな日本語を選んだ」(p.59)という理由から日本語を選択した学生が95%だったと述べている。
また、フィリピン人対象ではないが、1982年には来日を待つインドシナ難民が一時的にフィリピンで生活をしており、彼らの日本語教育のために日本語教師が派遣された(朝日新聞1982)。1984年には、日本語能力試験が首都のマニラで実施された(野村2016)
  1990年代に入り、米国との基地協定の廃止や当時の政権による国語重視の方針が打ち出されたことで、教育省による日本語、中国語等の外国語教育の必要性に対する見解にも変化が見られた(国際交流基金2017)。「日本人とビジネスするため」「日本人の上司とコミュニケーションのため」「日本へ働きに行きたい」という理由のため、首都マニラで日本語会話教室が開講され、小規模の大学でも日本語講座が開講されるようになった (ベアトリス1995:11)。
   2000年に入ると、フィリピンが首都圏に経済特別区を設けたため、日系企業が増え、日本への関心が強まった(阿部2002)。マリテス(2003)は朝日新聞において、戦時中の怖い占領軍のイメージから日本の漫画やアニメによって日本像が変化し、日本への関心が高まっていると述べている。
  2004年以降、日比経済連携協定(以下EPA)が両国間で交渉され始め、介護福祉士養成学校が開設ラッシュとなったが、フィリピン国内で介護福祉士の需要はなかった。そのため、2006年には朝日新聞は「マニラなどの大都市では、さすがに日本語熱は冷めつつある」(p.25、下線部は筆者による)と記載していた。2008年12月にはEPAが発効され、2009年5月、フィリピン人看護師及び介護福祉士候補者の第一陣が日本に迎え入れられるに至り、再度日本語教育に注目が集まり始めた(国際交流基金2017)。さらに、2008年12月に教育省が外国語教育プログラム「Special Program in Foreign Language」の導入を発表し、2009年6月より選択外国語科目としてスペイン語、フランス語、日本語の3言語の教育を各言語の実験校で開始したことで、中等教育レベルの機関数、教師数、学習者数の増加に繋がっている(国際交流基金2017)。
 中込(2016)は現在の日本語学習のきっかけとして①アニメ、ドラマ、主題歌、日本武道といった日本文化②中等教育での選択科目③就労をあげている。就労を目的とした日本語教育はフィリピンの特色の一つであり、それに伴い、全体の56%を占めるのがその他教育機関以外での学習者である。

 

4.在日フィリピン人女性の日本語学習
 厚生労働省(2016)の調査によると、国際結婚は1989年以降急増し、日本人夫・アジア地域出身の妻の結婚の割合が80%を占めている。特にフィリピン人妻は、中国に次いで2番目に多い。2007年の朝日新聞では、興行ビザで入国し、日本人男性と恋愛結婚した新潟の山村で暮らすフィリピン人妻が「結婚後、ロドビナさんは必死に日本語を覚え、農村の暮らしに溶け込んだ」(p.27)と記載されていた。キャバレーで働いていた時も自然環境で日本語を習得していたようだが、結婚後も自然環境で日本語を覚え学んでいき、義母もその頑張りを評価しているという。
  中島(2017)はフィリピンパブで出会った彼女(後に結婚している)からくるメールでは、日本語がローマ字で綴ってあったという。話す、聞く能力は、働く中で習得できるものであるが、読み、書きはやはり難しい部分がある。
北海道のとある病院で看護助手として働くフィリピン妻(40代後半)Aさんへの聞き取り調査においても、「日本に来たのは…28年前くらいです。(日本人の夫と)結婚してこっち(日本)に来ました。日本語はこっち(日本)に来てから、覚えました。」という回答があり、日本で生活する自然環境の中で習得したそうだ。Aさんは、日本で出産子育てをし、すでに孫もいるという。母語はフィリピノ語(タガログ語)で、英語、スペイン語、日本語の4か国語での会話が可能だそうだ。院内の業務においても日本語でのやり取りに全く支障はなく、現在は看護助手のリーダーを務めている。院内で働くBさんにも参考として聞き取り調査を行ったが、「日本語の発音とか、全然たどたどしくないよ。打ち合わせの時は、~です、~ますで話してるしね。昔は、日本語わからなくて他の人にきいてたみたいだけど、今は私が、『Bさんあれやってください』なんて言われちゃうよね」とのことだった。フィリピン人妻は、日本で暮らす自然環境の中で日本語の話す、聞く能力を習得していると思われる。

 

5.おわりに
 フィリピンは、多言語国家であるため、他のアジア圏の国に比べ日本語学習者が決して多いとは言えないが、戦前から現在まで96年に渡って日本語教育が行われてきた。学校教育機関以外のその他の教育機関で、就労のための日本語教育が行われているのが、フィリピンの特徴と言えよう。また、妻として暮らす在日フィリピン人女性が数多くいる中、彼女たちの日本語学習については日本語教育分野において先行研究が散見されない。しかし、彼女たちは日本で暮らす中で、働く中で、日本語を学び、習得していったことが本研究から明らかになった。今後、「日本語教育」として日本で生活する外国人妻の日本語習得について更なる研究が進むことを願う。


【参考文献】
朝日新聞(1982)「来日待つ難民に日本語出張教授」、1982年12月2日東京版夕刊、19.
朝日新聞(2006)「『マブハイ』の国から 2.姉妹 出稼ぎ期待と現実」、2006年4月13日大阪版朝刊、25.
朝日新聞(2007)「環日本海その後[8]新潟に暮らす」2007年1月10日新潟版朝刊、27.
阿部由加里(2002) 「フィリピンにおける日本語教育事情」『折尾女子経済短期大学論集』37,89-100.
外務省(2019)「フィリピン共和国基礎データ」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/data.html#section1 (最終閲覧日2019年6月23日)
国際交流基金(2017)「フィリピン(2017年度) 」
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/philippines.html (最終閲覧日2019年6月23日)
中込達哉(2016)「日本語教師がみる世界の日本語リアルレポート第2回フィリピン」『日本語学』pp.76-79.
中島弘象(2017)『フィリピンパブ嬢の社会学』株式会社新潮社.
野村由香里(2016)「フィリピンにおける日本語教育の歴史と現状」『日本語教育論集』25,33-40.
ベアトリスP.モヒカ(1995)「フィリピンにおける日本語教育」『世界の日本語教育日本語教育事情報告編』2,11-21.
法務省(2018)「平成30年6月末現在における在留外国人数について」
http://www.moj.go.jp/content/001269620.pdf (最終閲覧日2019年6月23日)
マリテス・ビトゥ(2003)「アニメが変える日本像」『朝日新聞』2003年2月7日朝刊、14.
森清(1979)「フィリピンの日本語教育事情」『日本語教育』39,56-64.

©2014 Yoshimi OGAWA