ペルーの日本語教育の展開について

 

宮澤千澄

1.はじめに

  ペルーは南米の中でもっとも計画移住開始が早く(ブラジルより9年早い)1899年に790人の契約移民を皮切りに、多くの日本人が労働者としてペルーに渡った。1908年以降次々と日本人小学校が設立された。移住者子弟への日本語教育が始まりであり、当初は継承日本語教育が行われていた。第二次大戦下には日本語教育機関は閉鎖され、継承日本語教育は一旦途絶えた。1952年に国交が回復すると、新たに日系人学校も開催されるようになったが、主流は外国語としての日本語教育であった。高等教育を受けた日系人が社会で活躍し、日系人大統領も誕生したペルーの日本語教育の展開についてまとめる。山脇(1999)による論文、増田・柳田(1999)による書籍を基にまとめた。

 

2.戦前期における教育状況について

 戦前期ペルーにおける日系住民にとっての教育問題は、いかに日本人による教育機関を創設・運営するかという点に重点があり、自らが学校をつくることが子どもの教育のための適切な手段だと考えられていた。

1918(大正7)年に出された「リマ日本人小学校設立準備委員会趣意書」にはペルー社会が十分な初等教育を住民に等しく提供できる状況が整っていない背景を反映した内容が記載されていた。日本語だけしか話さない日本人移民に囲まれて生活している農業地帯とちがって、子どもたちの日本語能力が自然に発達するような環境ではないので、日本人の子どもが日本語を理解しない「問題」を解決するために、日本人学校が求められたのである。

2-1. リマ日本人学校について

 1930年代は日本人学校の建設ラッシュ時で、最盛期にはペルー全国に50校弱あった。教育施設や教員の質の面ではリマ校はとびぬけた存在であるばかりか、日系住民にとって文化的行事や社交の場として重要な機能を果たした。坪井(2010)によれば、リマ日本人小学校はリマの日本人の切なる願いから設立された学校であった。1908年カニエテの耕地では子どもの教育のため、小さな日本人学校ができていたが、リマにはまだなかった。(参考資料 表1参照)1920年、リマ日本人学校は、間借りの校舎で児童24名でスタートし、192812月、2万平方メートルの校庭をもつ新校舎に移った。児童数は400名だった。1940年の児童数は1600名まで増えていた。移民たちが経済的にも豊かになり、日本から妻を迎え、その子供が学齢期に達した時期だった。

 リマ日本人学校は、1932年には日本政府の在外指定学校になり、正式の教員資格を持つ先生が日本の外務省を通じて派遣されてきた。教育方針は「日本精神を有する善良有為なるペルー市民の育成」を目的としていた。大戦がはじまり1942年末には数の学童数の激変により自主閉鎖となり、後にペルー政府に接収され、ファニング女学校になった。

 

3.戦中における教育状況

 戦中は、日本語の使用や日本人の集会は禁止され、多くの日本人教師がペルーを追放され、公的に日本語教育ができる状況ではなかったが、リマ近郊で日本人が比較的多く住んでいた耕地では、非合法の私塾で日本語教育が細々と続けられていた。

(増田・柳田(1999)p146

 カヤオ日本人学校、時習寮、星学園の三校は、日本人の父兄会が運営を主導しつづけ、校長、教員、授業時間の全てにおいて完全にペルー式の学校として、それぞれホセ・ガルベス校、サンタ・ベアトリス校、サムジオ校という名前で戦時期を乗り切り、日本人学校の伝統を戦後に伝えることになった。(参考資料 表1参照)「勝ち組」も生まれ、独自の私塾をつくり、リマでは大小30前後の私塾が存在したと言われている。

 

4.戦後における教育状況

 1947年6月になってようやく日本人の集会禁止と日本語使用の禁止令が公式に解除された。ベラスコ政権の時、リマ近郊だけで、サンタ・ベアトリス校(リンセ区)、ラ・ビクトリア校(リマ区)、ホセ・ガルベス校(カヤオ)、チャクラ・セロ校(チャクラ・セロ)という文部省公認の私立の日系人学校があった。1952年に中等学校設立の許可を得ていたサンタ・ベアトリス校の父兄が中心になって、日系人中等学校設立の気運が急速に高まり、1972年にラ・ウニオン運動場の一角に、小中一貫教育のラ・ウニオン校が完成した。                                        

4-1. ラ・ウニオン学校について

     協同組合立の形を取り、戦前の時習寮の系譜を引く日系人小学校、サンタ・ベアトリス校の中等学校としてスタートした。1975年からは小学校も合わせた小中総合学校として現在にいたっている。

 創立当初は積極的な日本語・日本文化教育がめざされ、日本語教育に力を入れるべくカリキュラム編成が行われていた。しかし、日系社会の高学歴志向を背景に、大学入学を目指すいわゆる進学校として変わっていった。父兄の大部分もすでに二世となっており、一世と同居している家族以外は家庭で日本語に接触する頻度も低く、父兄の日本語教育に対する関心もあまり大きくなかった。そうであっても、在校生千人を超えるラ・ウニオン校は、日系社会の教育の中心として大きな役割を果たした。

 

近年の日系校

 国際交流基金(2020)の情報によると、リマではラ・ウニオン総合学校やラ・ビクトリア校など、日系人が設立し、ペルー教育省の公認を受けた5つの小中学校において、また、リマ以外の都市では3つの小中学校において、第二外国語として日本語が教えられている。これらの学校では、既に非日系人の子弟が過半数を超えており、日常会話を中心に学習している。(参考資料4

 ペルーの日系人は約10万強となり、現在の主流は継承語としての日本語教育でなく、外国語としての日本語教育である。

 202015月現在、大小含めて30以上の日本語教育機関、日本語コース、私塾等があるが、きちんと組織され教師数・学習者数共に充分と言える機関は首都リマに集中している。(参考資料1,2,3

 日本語学習者は、幼稚園レベルから大学レベルまで幅広く、近年はオンラインでの日本語指導がされるようになり、初等、中等、高等全ての教育機関で生徒数は増加傾向にある。(参考資料3,5

 

6.おわりに

 今回は紙面の関係で触れることができなかったが、帰来二世(ペルー生まれで日本で教育を受けた後、再びペルーに戻って来た二世)や、親の出稼ぎとともに日本に来た後ペルーに戻った子供たちのこと等語りたいことがある。特に、戦前、日本に送り出されたペルー生まれの二世の中には、開戦と日本・ペルー間の国交遮断により帰国の道を閉ざされ、そのまま日本で生活する道を選択した者もいた。一方、帰国し堪能な日本語力を生かし日系社会と日本とを繋ぐ重要な役割を担った者もいた。契約移民からたたき上げてきた古参の一世、「呼び寄せ移民」としてペルーに渡り、都市生活を続けてきた中堅の一世。戦前のペルーで日本式の教育を受けた古参の二世。戦後ペルー人として成長してきた新しい二世。さらに、帰来二世。そして戦後の日本で育ち、ペルーに渡った新移民。日系社会も多様化してきた。

 現在ペルー日系人協会が首都リマの日秘文化会館で開講している日本語コースは特に生徒数が多く、20202月時点で約600名が在籍していた。マンガ・アニメ等、日本のポップ・カルチャーへの関心から学習を開始する若年層が増加している。

 

参考文献・書籍

坪井壽美子『カナリヤの唄-ペルー日本人移民激動の一世紀の物語』連合出版、2010

鳥羽美鈴「ペルー社会における日本文化の伝承」『関西学院大学 先端社会研究所紀要』第8号、2012

増田義郎・柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論社、1999

柳田利夫・義井豊 『ペルー日系人の20世紀』 芙蓉書房出版、1999

山脇千賀子 「ペルーにおける日系住民と教育―歴史的経緯と現状」『ラテンアメリカレポート』Vol.16. 2号 日本貿易振興会アジア経済研究所、1999pp.22-29

国際交流基金 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2019/peru.html

202272日ダウンロード

南米スペイン語圏日本語教育実態調査報告書2017

https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/teach/dispatch/voice/voice/nanbei/brazil/2018/report01.html

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