「コロニア語」の言語使用の変遷
日系1世・2世のコロニア語の使用実態


 根本ミシェリケイコ

 

1. はじめに
 2019年7月多くのブラジル新聞では、日本人移民の111年周年の記念記事が新聞の一面を飾った。1908年4月28日、「ブラジルに行けば家族に豊かな生活を与えられる」 そう信じた781人の日本人農民を乗せて「笠戸丸」は神戸港を出発した。様々な苦難を乗り越え、多くは母国日本に帰ることができず、ブラジルという遠い異国で移民を決意した。本稿では、日本人移民の歴史に触れながら、日系人コミュニティーで生まれた、「コロニア語」に関するインタビュー(2名)の語りから考察し、インタビュイーの語りや自らの経験から3種類のコロニア語の存在の特徴をまとめた。


2. 日系人コロニアの誕生
 1895年11月の修好通商航海条約調印をもってブラジルと日本の外交関係が始まった。日本国内でも移民政策は全面に押し出され、「笠戸丸」は1908年4月28日に神戸港を出航した。 笠戸丸には、791人(表1参照)が「金になる木」という移民政策のキャッチフレーズに希望を抱き渡伯した(高橋,1993)。ブラジルまでの旅は長く、約2ヵ月後の 6月18日ブラジル・サントス港に到着した。契約移民で渡った多くの日本人は、ブラジルのコーヒー農業をはじめとする農業(Fazenda)で低賃金労働者として扱われ、黒人奴隷の制度が廃止になった後にも関わらず奴隷と同じような扱い方を受けていていた。しかし、日本人らは、勤勉に働き雇い主の信頼を受け、いい生活を手に入れた者もいれば、脱走する者もいた。「白人、外人(ブラジル人)」から自由を手にした日系人らは結団し、彼ら自身のコロニア(植民地)のための開拓が始まった。

3. コロニアで話されていたコロニア語とは
ブラジルで話されている日本語の中にはポルトガル語が存在している(Dói,2004)。これをコロニア語と呼ばれている。Dóiの定義によると、コロニア語は発話者の出身地の影響を受け生成されており、「昔の日本語とポルトガル語を混合する言語(コロニア)」はオーラルコミュニケーションにとどまらず、第二次世界大戦の日本語禁止令の影響を受け、日系人向けの新聞の掲示板(求人)、日系人集会、俳句や文学でもコロニア語はしばしば使われていたという。コロニア語の誕生は明確に記載されている論文は日本語、ポルトガル語でもなく、追究する必要がある。
 コロニア語の使用実態を巡って、永田(1991a)はパラナ州アサイ市1989年8月から1990年2月にわたり日系1世から3世の間で使われていたコロニア語の調査を行った。フィールドの結論として、アサイ市でのコロニア語の使用実態はポルトガル語の影響が強く、複雑な混交であり、学校教育を通しての標準語や移民出身者の多くを占める西日本方言の中でもとくに、九州方言によって平均化されていると述べている。また同論文で、周囲のブラジル社会との接触によりポルトガル語の影響を大きく受けており、コロニア語は日系3世の間ではほとんど使われておらず、いずれ消滅すると指摘している。
 以上の2点を踏まえ、本レポートでは、コロニア語がなぜ誕生し、どのような特徴を持っていたのかを2名の日系人にインタビューを試みた。インタビュイーは80代男性Aさん(日系1世)、Aさんの40代の次女Bさん(日系2世)の親子である。(表2参照)

4. コロニア語の多様性
 コロニアの誕生は多大な苦労の上で誕生したということは、筆者をはじめ、多くの日系人が子どもの頃に聞いた話である。幼いころの筆者は、よく日本語で書かれている新聞を読む祖父の記憶がある。彼はブラジル生まれで、母語は日本語だが、決して家では日本語は話さなかった。しかし、やはり日常生活では、「おかしなポルトガル語」をしばしば口にしていた。

 

コロニア語タイプ①
“Os Japoneses semprem foram kinben. ”(日本人はいつも勤勉である。)

 

 ブラジルの公立小学校に通っていた筆者に勉強に励むようにと祖父はいつも口にしていた言葉である。このようにポルトガル語の使用実態(葡日)は、コロニア語の一種である。祖父は、永田(1991a)がフィールドを行ったアサイ市出身であり、商売人だったため、ブラジル人との関わりが多かったことからこの使用状態となったと考えられる。
 しかし、今回のインタビューでは、以上の例以外に2種類(合計3種類)のコロニア語の存在が明らかになった。
 まず、一つ目は、上記の例と異なり、日本語の発話にポルトガル語が混交された事例が親子A,Bさんのインタビューから見受けられた。インタビューで発話されたコロニア語は以下の例である。

 

コロニア語タイプ②
“Mukashi ha kodomo ga umareta issyukan inai ni Consulado de registra shinakakereba ikenakatta .Demo shigoto no kankei de filha mais velha no registro shini ittara issyukan sugiteita.” 
(昔は子供が生まれると一週間以内に領事館(日本の)に行って、登録(戸籍)をしなければならなかった。でも、仕事の関係で長女の登録しにいったら、一週間過ぎていた。)

 

 上記はAさんが当時の様子を語るうえで発話されていた。筆者は、Aさん(80歳)の自然のコロニア語の発話を引き出すために、インタビューを日本語で行った。Dóiが定義するコロニア語「昔の日本語とポルトガル語の混合」を想定してインタビューに挑んだが、彼は日本語(標準語)で話をし、コロニア語の使用があまり見られなかった。その背景には、神奈川出身であることだけでなく、渡伯したわずか6カ月で、農業(Fazenda)の仕事から抜き出し、ブラジルに進出していた日系企業に勤めていたと予測した。独学でポルトガル語を勉強し、日系企業に採用され、工場で館長しポルトガル語を用いていたが、家庭では妻の方針で子とは日本語で話していたという。Aさん仕事の関係で、サンパウロ内を何度も転々としたが、日系人コロニアがいるような環境ではなかったため、あまり日系人の関わりはなかったという。ブラジル社会に溶け込みながらも、日本人魂をもっている妻は、今でもポルトガル語が不自由であるという。彼女は、家庭ではポルトガル語を禁じ、子(Bさんを含めた3人の姉妹)に小さいころからインタナショナルスクールに通わせ、裁縫、ピアノなどと教育に熱心だった。Aさんは、ブラジルでは「日系人は教育に熱心」「日系人は頭がいい」とされていたため、自分の家庭だけでなくほとんどの家庭の日系1・2世は日本語をはじめ、ポルトガル語や英語が話せていたという。
 

 Bさんは母語をポルトガル語としているため、インタビューをポルトガル語で行った。上記でも記載したように、彼女は中学校までインタナショナルスクールに通ったが、母語をポルトガル語と捉えている。ブラジルの大学を卒業後、20代後半に日本の某広告代理店に採用され、来日した。当時は、日本に行く”Dekassegui”(デカセギ)はブラジルに移民した日本人と同じような奴隷扱いをされているという概念を持った父は固く反対したという。来日3年で同じく、日系2世と結婚し、日本で子育てをしたという。家庭では旦那とはポルトガル語で話していたが、子が日本の生活で不自由なく生活を送ってほしいという想いのうえ、日本語を使用していたという。しかし、無意識に日本語がコロニア語だったことを、保育園に通う息子が以下の発話をし、先生に指摘されたことにより気づいたと言う。

 

コロニア語タイプ②
“Kyou no dezaato ha abaxi nano? Boku abaxi ha ie de yoku taberu” (今日の給食のデザートはパイナップルなの?僕家ではよくパイナップルを食べるよ)

 

 息子は日本社会で日本語に囲まれていたが、「Abaxi」が日本語でないことに気づかなかったという。また、Bさんはよく子どもたちに上着を着るようにと指示をするときに次のような言い方を用いていたという。

 

コロニア語タイプ②
“Rapido shite. Blusa wo kite .” (早くして。上着を着て)

 

 しかし、筆者とBさんはしばしばメールや口頭でよくポルトガル語で話している中で、日本語の単語が出現する。例えば、インタビュー当日のメールのやり取りで以下のやりとりがあった。

 

コロニア語タイプ③
“Gomen .Tive zangyou hoje e teremos que nos atrasar com a entrevista.”(ごめん。残業のせいで、今日のインタビューを遅めよう)

 

コロニア語タイプ③
“Tem que ganbatiar para chegar a tempo”(間に合うように、頑張らなきゃいけない)
彼女は2つのコロニア語を用いていた。これらの考察は「まとめ」で行う。

 

5. まとめ
 A,Bさんの親子の語りや筆者の祖父のポルトガル語使用実態から、3つのコロニア語の使用実態とその背景を見た。コロニア語を3つのタイプに分けたが社会的背景によって使い方が違っていたことがわかる。コロニア語タイプ①とコロニア語タイプ③は同じような言語体系だが、使用実態の背景が違うことを理由に別のものだと認識する。          

 コロニアタイプ①は、ブラジル社会の中で、日本人らしいこと、「勤勉」以外に「粘り強い」などを耳にしたが、これは「カラオケ」「キモノ」の「外来語がポルトガル語の一部になった」一般的な括りだと考える。しかし、コロニア語タイプ③は来日した日系3世らが、よく工場で使う言葉(zangyou (残業),yakin(夜勤)、yuukyu(有給))をはじめ、日常生活用語(yasumi (休み), ganabatiar (頑張る), syaken(車検))はわざわざポルトガル(zangyou( fazer hora extra),yakin (trabalhar de noite),yuukyu(pegar folga com pagamento) yasumi(pegar folga/folgar),ganbatiar(se esforcar),syaken(check up don carro) と長く言うより便利であることから、日本語がポルトガル語の中に存在していると予測する。このポルトガル語の使用実態は、日本語上級者に問わず、まったく日本語は話せなないブラジル人もよく用いているのである。しかし、このタイプ③は「コロニア語」と定義できるかどうかは難しい。
 コロニア語の多様性や使用実態はインタビューの中から3つに分けたが、これら以外に”Osera”(オ(己)セラ 私たち)と自分らのことを指すものもいれば“Uninachu” (うちなんちゅ 私たち)と出身地によって使用が異なっていた記述もあり、今後さらにこれら以外の「コロニア語」を探究することも興味深いと考える。

 

〈参考文献〉
・永田高志(1991a)「ブラジル日系人の日本語の特徴―戦前移民地アサイを
事例に―」『文学・芸術・文化』
・高橋幸春(1993)『日系ブラジル移民史』:三一書房
・Dói, E. T.「 “Japonês”. Enciclopédia das Línguas no Brasil」. IEL, Unicamp.  
http://cienciaecultura.bvs.br/pdf/cic/v57n2/a20v57n2.pdf(2019年7月21日閲覧)
  

©2014 Yoshimi OGAWA