日本人信徒のラテン語学習

 

石垣尚子

0.はじめに

天正遣欧使節についての文献調査により彼らにとって第二言語であるラテン語学習、その成果を明らかにする。

 世界と日本とを結びつけた天正遣欧使節の4人の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)は8年という長い歳月をかけて重い責務を遂行し、成功を収めて無事に帰国した。しかし、帰国後の日本は、伴天連追放令、キリシタン弾圧と厳しい現実が待ち構え、穏やかなものではなかった。400年以上たった現在においてもこの4人の業績は大きく、日本がヨーロッパと同じ文明国であることを世界に示してくれた。実際に足を運び、顔を見せ、言葉をかわしたことの効果が想像以上に大きかったということではないだろうか。彼らに必要とされたラテン語の学びがどのようなものであったか、また、行事を通じた彼らのラテン語に注視して述べていく。

 

1.ラテン語の学び

1.1セミナリオ(ヴァリニャーノが開設した聖職者育成のための学校)での学び

 ヴァリニャーノが定めた「セミナリオ内規」では、教師と生徒との関係、教科目、生徒の服装、日常生活などについて明示されていた。その中の時間割から学習時間が推測できる(資料Ⅰ参照)。ラテン語の学習時間は一日5時間半であった。自学と教師の指導の時間があった。またラテン語の学習だけでなく日本語における読み書きも並行して行われていた。早朝、就寝時のお祈りや冬期への配慮など、規則正しい生活習慣にも配慮されていたことが伺える。

1.2航海中の学び

 『クアトロ・ラガッツイ』(若桑, 2003)では船上の少年たちの学習の様子が書かれている。ここでは4人のラテン語の習得状況が伺える。

「このわずかなあいだにもラテン語において著しい進歩をなした。ドン・マルティーノはラテン語で演説文を作成しはじめ、のちにこれをイエズス会の総会長の前で読むために暗記した。ドン・マンショはそれよりも短い演説文を作ったが、その後エヴォラにおいてわが会のパードレが彼のために数語を訂正した。彼はすぐれた記憶力と技巧をもっていたので、教皇猊下の前でそれを暗譜しようとしてほとんど完全に習い覚えた。ほかの三人はそれぞれ教皇猊下を賛美する辞をつくった。」(若桑, 2003, p.285

後にインドのゴアで有名な演説を行ったマルチノのラテン語力は、この抜粋部分においても他の3人と比べ秀でていた様子がわかる。船旅では胸、腹の病気で死に至るものも多かったが彼らは無事に、日本をでて二年半後の15848月にポルトガルのリスボンに到着した。

 

2.ラテン語の成果

2.1フェリペ2世謁見 (15841114日)

ポルトガルについたものの、当時スペインによって統治されており、一行はスペインの王宮に向かった。そのときの謁見の様子が『天正遣欧使節』(吉田, 1999)に書かれている。

「フェリーぺ陛下は、伊藤マンショたちが王室に罷り出て跪いて御手に接吻しようとすると、それを拒んで親しく抱擁された。」(吉田, 1999, p175

「伊東マンショと千々石ミゲルが、日本語で挨拶し、美しい箱に収められた大友・有馬・大村三侯の書状を奉呈した。陛下はその書状を日本人修道士ロヨラに渡して、朗読させた。」(吉田, 1999, p177)。

フェリペ2世の歓迎ぶりは破格の待遇だった。陛下は同行したメスキータに使節のスペイン語について尋ねたが、メスキータは「ラテン語を学んでいて、スペイン語をよく知りませぬ。日常、一行の人々とは母国語(日本語)で話しております。」(吉田, 1999, p176)と答えた。謁見においては、日本語で挨拶、それを同行した修道士が通訳する、そのような様子が描かれていた。また日常においては日本語使用が基本であった。

2.2ローマ教皇グレゴリオ13世謁見(1585323日)

 一行はいよいよ一番の目的であるローマ教皇との謁見のためローマに入った。しかし、不幸にも中浦ジュリアンは謁見の日、高熱をだし参加することができなかった。儀式は予定通り行われる。フロイスと教皇庁式典部長アラレオー二は凱旋入市を次のように述べた。「ローマにては未曾有の最大の行事のひとつであると確信できるほど豪華壮麗をきわめた儀式なりき。行列の先頭には教皇の二騎兵隊、一様の装いをなし。スイス兵に付き添われ、ときどき高き音を放つ壮厳なるトランペットをともないて進行せり」(若桑, 2003, p.318)国を挙げて彼らを待ち望んでいた様子がわかる。

 謁見の儀式はヴァティカン宮の「帝王の間」において行われた。「伊藤マンショが豊後の大友宗麟の書状に接吻して、これを教皇に奉呈し、ついで千々石ミゲルが、有馬、大村二侯の書状を同じように奉呈した。それから両使節は日本語で簡明に使命を奏上してメスキータ師がご説明申し上げた。」(松田, 1999, pp.225-226)。しかし、この「帝王の間」における儀式の順序については資料が語るところは必ずしも一致していない(松田, 1999, p.225)ということである。

 教皇は涙をもって使節を迎えた。使節と教皇との言葉のやりとりはメスキータのイタリア語通訳が入った。4人の醸し出す雰囲気、声、表情は教皇を魅了する物だったと思われる。その後、教皇は謁見からひと月もしないうちにこの世を去った。おそらく余命少ないわが身のことを察知していたと思われる。そのようなこともあり、遥か彼方の東方からくる4人の使節に出会えたことに特別の思いがあったのではないだろうか。

2.3行事から推測する少年たちのラテン語

 フェリペ2世、ローマ教皇など重要人物との謁見において少年たちの「話す」に焦点を当てると、修道士の説明や通訳の助けが必要であった。マルチノのインドの演説は有名だが、船上での学習にあったように、それらは演説や暗記する物が多く、ラテン語での会話が示される場面はあまりない印象であった。また、「書く」に焦点を当てるとセミナリオの時からかなり学習した様子が伺われた。ポルトガルのエヴォラにて、大司教ドン・テオトニオ・デ・ブラガンサは、少年たちが書いたラテン語の文章を読んで驚嘆したらしい(若桑, 2003, p.291)。実際に達筆な4人の肉筆文書も残っている(ポーランド・ヤギェウォ大学)。

 

3.まとめ・感想

少年たちのラテン語学習は、セミナリオ、航海中の船の中でも行われた。ヴァリニャーノはインドのゴアにて下船するが、その後は修道士メスキータが彼らの世話、指導にあたっていた。もちろんこの使節派遣には日本宣教の成果を教皇に伝え、帰国後の日本においてもヨーロッパ見聞を広めるなど、さまざまなねらいがあるものの、ヴァリニャーノ、メスキータや少年たちとの絆の深さを感じた。使節4人が無事に任務を果たし日本に帰国できたこともこのような修道士たちの思いと指導があったからだと思われる。少年たちがラテン語のみでなく実際に訪れる地域での使用言語を話せたらまた違う言語学習のモチベーションを好奇心旺盛な少年たちは持ったと思う。

使節が実際に重大な行事をこなすことでラテン語においてのモチベーションをあげていく様子も伺えた。彼らにとって日本から同行した修道士たちの支え、教皇との謁見を通して信仰を深め、その上にラテン語の学びの意義も存在していたのではないだろうか。

 

参考文献

アドリアーナ・ボスカロ(1997)「イタリアを訪れた最初の日本人」岩倉翔子(編)『岩倉使節団とイタリア』京都大学学術出版会 

気谷誠(1995)「ベッソン・コレクション――天正少年使節と『原マルチノの演説』」筑波大学附属図書館

松田毅一(1999)『天正遣欧使節』講談社学術文庫

若桑みどり(2003)『クアトロ・ラガッツイ――天正少年使節と世界帝国』集英社