Ⅳ 近代以前のヨーロッパ・ロシア

 

課題

 

1 ヤジロウとザビエル一行の日本語学習

 1999年、フランシスコ・ザビエル来日450周年を記念し、鹿児島のザビエル公園に三人の群像が設置された。その一人は、ヤジロウ(アンジローと呼ばれることもある)という鹿児島出身の日本人であった。ザビエルが日本を布教の地に決めたのは、マラッカでヤジロウに出会い、彼の話に感銘を受けたことがきっかけだったと言う。ポルトガル語に長けたヤジロウは、当初ザビエル一行の通訳をつとめていたが、一行の中には、ヤジロウから日本語を学び、やがて、彼に代わって通訳ができるまでに日本語が上達した者もいた。ゴア留学の経験のあるヤジロウの足跡をたどりながら、彼のポルトガル語学習や一行の日本語学習がどのように行われたのかまとめよ。

 

2 「キリシタン版」

 イエズス会は16~17世紀にかけて日本で布教活動を行い、多くの日本人信者を獲得した。日本布教を円滑にすすめる方策の一つとして、巡察師ヴァリニャーノが活版印刷機を持ち込み、教義書、辞書や学習書を印刷した。「キリシタン版」と呼ばれる出版物の中には、現在、イソップ物語として知られる『イソボのハブラス』、『天草版平家物語』なども含まれる。「キリシタン版」には、どのような書物があるのか、2点を選び、対象(ヨーロッパの宣教師用か、日本人信徒用か)、表記、言語的特徴についてまとめよ。

 

3 宣教師による日本学習書

 「キリシタン版」の中には、後世に幾度も異なる言語に翻訳されたものがある。たとえば、『日葡辞書』は、17世紀にスペイン語版が作成され、19世紀にはフランス語訳が出版された。さらに、『邦訳日葡辞書』(1980)も出されている。一方、当時の日本語研究の最高峰とされる、ジョアン・ロドリゲスによる『日本語大文典』や『日本語小文典』は、複数の日本語訳が出版されてきた。ロドリゲスの『日本大文典』、『日本語小文典』(上)(下)を手に取り、日本語学習観や日本語の観察力についてまとめよ。

 

4 「適応主義」と日本語学習法

 日本布教を成功させるために、ヴァリリャーノは、ザビエルの考えを引き継ぎ、宣教師たちが現地の言葉を学び、風俗習慣を尊重する「適応主義」の考え方を重視した。コレジオやセミナリオと呼ばれる教育機関を開設し、また、書物を相次いで出版したのもこの一環であった。「適応主義」の内容を詳しく調べ、現在、異文化や外国語を教えたり学んだりする際、「適応主義」という考え方は、どのような状況で効果を上げるか具体的に考えてみよう。

 

5 日本人信徒のラテン語学習

 天正の少年使節団をヨーロッパに派遣(1582年)した目的の一つは、巡察師ヴァリニャーノが、日本での布教が「順調」に行われていることをヨーロッパに知らしめることであった。13~4歳で日本を離れた少年たちは、スペイン国王やローマ教皇と謁見し、市民から熱烈な歓迎を受けた。これをきっかけに、ヨーロッパでは日本に関する書籍が数多く出版された。日本での布教の「順調」ぶりは、彼らのラテン語力によって十分に証明された。帰路、ゴアで原マルチノが行った演説をはじめ、彼らのラテン語力とその評価はどのようなものであったのだろうか。

 

6 中国布教と「適応主義」

 ザビエルは、中国布教を志しながら中国を目前に他界したが、彼の夢はイエズス会宣教師マテオ・リッチらによって引き継がれ、「適応主義」のもとにすすめられた。中国でも、イエズス会宣教師たちは、中国語や中国文化を学び、儒教をはじめ中国の伝統を重んじた。また、西洋の近代科学を紹介し、皇帝からの信頼も得るようになった。中国語研究の成果として、学習書や辞書が作成された。具体的にどのようなものがあるか、また、当時の中国語・中国文化の研究はヨーロッパに何をもたらしたのだろうか。

 

7 開国前の日本語学習:シドッチ

 イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(1668~1714)の名は、儒学者新井白石(1657~1724)の『西洋紀聞』『采覧異言』によって知られるようになった。シドッチは、1708年、ローマ教皇の命で日本布教復活をめざして屋久島に潜入するもまもなく捕えられて、江戸のキリシタン屋敷で白石から尋問を受けることになった。彼がキリスト教の思想や西洋の学問、社会事情について語った内容は白石によってまとめられ、上記の書となった。シドッチは、白石から尋問をうけた際、わずかではあったが日本語を話していたという。シドッチはどこで日本語や日本事情を学んだのか、来日の経緯とともにまとめよ。

 

8 オランダ通詞と唐通事

 長崎には、通詞(通事、通辞)と呼ばれる通訳や翻訳を専門とする人々が居住していた。オランダ語を専門とするオランダ通詞、中国語を専門とする唐通事がいた。オランダ通詞は、日本人が務め、19世紀になると、ロシア語や英語、フランス語の学習を命ぜられるようになった。一方、唐通事は、中国からの渡来人の子孫を中心とした組織で、翻訳・通訳のほか、貿易業務、在留唐人の取り締まり、長崎奉行の外交上の諮問を受けるなど多様な業務を請け負っていた。オランダ通詞の制度、19世紀のオランダ通詞たちの主な功績についてまとめよ。

 

9 18世紀のロシアの日本語教師

 ロシアのオホーツク海沿岸、カムチャツカ半島には、日本の船が漂着することがしばしばあった。18世紀のロシアでは、こうした日本人漂流民を教師として日本語が教えられるようになった。デンベイ、ゴンザ・ソウザ、サニマ、新蔵(光太夫一行)、善六(津太夫一行)ら、日本語教師となった漂流民の出身地とロシアでの活動についてまとめよ。

 

10 帰還した漂流民がもたらしたもの

 ロシアに漂着した日本人漂流民の多くは、日本に戻ることはなかったが、幸運にも、ロシアの遣日使節団によって送り届けられた者がいる。大黒屋光太夫一行と津太夫一行である。蘭学者が彼らから聴取したロシア情報をもとに記したのが、『北槎文略』『環海異聞』である。彼らがもたらしたロシア情報とはどのような内容だったのか、まとめよ。

 

11 長崎出島の三大学者

 江戸時代、出島のオランダ商館に勤務した者の中には、日本で文物を研究、収集し、ヨーロッパに紹介した者がいる。特に長崎出島の三大学者と言われた、ケンペル(ドイツ人医師、1690年来日)ツュンベリ(スウェーデン人植物学者、1775年来日)、シーボルト(ドイツ人医師、1823年来日)は、帰国後、それぞれ日本に関する大著を残しているが、滞日中、日本語を研究し、日本語に関する論文や書物も著している。彼らの帰国後の功績についてまとめよ。

 

12 オランダ:ホフマンとシーボルト

 ヨーロッパで初めて日本語講座が開設されたのは、1855年、オランダのライデン大学においてであった。オランダは、17世紀以降、インドネシアの東インド会社を経由し、ヨーロッパで唯一対日貿易を担っていた国であり、鎖国下の日本情報はオランダが掌握し、オランダ経由でヨーロッパに伝えられた。ライデン大学の初代日本語講師、J.J.ホフマンが、日本語研究を行うようになったのは、オランダ商館に医師として赴任したシーボルトが日本から持ち帰った書籍や資料の整理を任されたのがきっかけであった。彼は、滞日経験は無かったが、幕府派遣の使節団や留学生と交流し、辞書や文法書の作成をはじめ、数々の功績を遺した。ホフマンとシーボルトの日本語研究・日本研究に関する功績についてまとめよ。

 

13 19世紀のマクドナルド

 アメリカ人、ラナルド・マクドナルドは、1840年、利尻島に漂流民を装って上陸した。

インディアンの血を引く彼は、自分の故郷が日本にあるのではないかという好奇心から、危険を顧みず日本にやってきたのだ。長崎に送られた彼は、座敷牢でオランダ通詞たちに英語を教えたことで、日本ではじめてのネイティブの英語教師として紹介されている。マクドナルドは、英語を教えるかたわら、通詞たちから日本語を聞き書きし、帰国後に日本語語彙集を作成している。日本語語彙集の特徴、マクドナルドがアメリカに与えた影響についてまとめよ。

 

©2014 Yoshimi OGAWA