中国布教と宣教師の中国語学習

 

          姚 瑶

1.はじめに

 16世紀から中国に渡ったイエズス会士はいつ、どのように中国文化を紹介し、また中国文学の書物を訳し始めたのか関心を持っている。宣教師による中国語の研究成果はどのようなものがあるのか。当時の中国語・中国文化の研究はヨーロッパにもたらした影響を明らかにしたい。

 

2.時代背景

 サビエルの死後、数名のイエズス会士が中国に入ろうとしたが、拒否された。1578年、ヴァリニャーノがマカオに到着し、イエズス会の中国派遣事業を始めた。彼は中国布教を成功させるために、現地の文化を尊重する「適応主義」を示した。また、宣教活動をするためにまず中国語を習得することを勧めた。ミケーレ・ルッジェーリ[i]とマテオ・リッチ[ii]がヴァリニャーノ[iii]の招きに応じ、中国語と中国文化に取り込んだ。1583年、二人は肇慶への上陸を許可され、中国南部の都市をめぐって、布教活動を始めた。リッチは儒教を哲学とみなし、宗教と区別する立場をとり、キリスト教と儒教は対立しない見解を示したため、知識人層の信頼を獲得した(狹間、2005)。

 

3.初代宣教師の語学学校

 マカオのサン・パウロ学院(15941835):学内の教科は人文科(中国語、ラテン語、修辞学など)、哲学科、自然科に分けられ、中国語の教育はこの学校の特色であった。多くの宣教師はここで中国語を習い、初期中国語文法研究に関わった多くの学僧(マルディーニ、プレマールなど)はこの学校の関係者であった。中国語を修業した者は200人も超えていた(何、2000a)

 

4.中国語文法書

 イエズス会士をはじめ、多くの宣教師によって西欧に贈られた中国に関する報告、著書などが引き起こした中国ブームをきっかけに、中国語研究が始まった。

著書名

著者

年度

特徴

内容

『中国語文法』

マルディーニ[iv]

1682

ラテン語で中国語文法を論じた最初の書

現在オリジナルの稿本は伝わらず、後世の写本のみが確認されている。3章からなっている。中国語の音節表と声調、名詞、代名詞、動詞、前置詞、副詞、間投詞、接続詞などを説明している。(西山、2008

『官話文典』

F・ウァロ[v]

1703

現存最古の中国語文法書

64葉(128丁)がある。全編スペイン語で書かれた。葉数を示す以外、漢字を使っていない。中国語の声調、名詞、代名詞の説明、動詞とその活用、文構成の方法、官話における礼儀正しい言葉、中国高官とその親族の呼称など文体と待遇表現を詳しく説明した(何、2000b)

『漢語札記』

プレマール[vi]

1728

(1831出版された)

中国の性質と構造を正確にヨーロッパ世界に伝えた最初の専門書

序文、第1部の口語と日常常用文体、第2部の文語からなっている。口語では身分や教養のある中国人が話している共通語を紹介し、戯曲や小説からの例文を引用している。文語では「文法と句法」、「人称の言い方」、「品詞の活用」、「虚字」、「様々な文体」、「修辞」、「熟語のリスト」など挙げられている(何、2000)

『中国言話』

J・マーシュマン[vii]

1814

口語より中国の古典文語に傾いている。

566ページもある大作。序論(文字論と音韻論)、本文(文法構造)、付録(『大学』の英訳)の3部で成り立っている。例文を『論語』から取り、不足部分は『孟子』など先秦の著作で補っている。彼の漢字観は目に訴える文字(意味→漢字→音)と主張している(何、2000b)

『通用漢言之法』

R・モリソン[viii]

1815

 

実用文法書

構成は音韻文字論、品詞論、統語論からなっている。漢字の習得は非常に重要な課題であると指摘し、漢字に特別に配慮してほしいと強く勧める(何、2000b)

 

5.ヨーロッパへの影響

 中国文化のヨーロッパヘの移入は十九世紀半ばまでは宣教師を中心に行なわれた。イエズス会士は中国の多くの古典をラテン語に翻訳した。ノエル[ix]が四書を訳し、1711年にプラハ大学で出版した。プレマールが訳した元曲『趙氏孤児』はヨーロッパに知られた最初の中国戯劇であり、人気を集めた。ヴォルテールはこの作品から『中国の孤児』を創作し、パリで上演した。また、マルディーニの『中国語文法』はイエズス会士や医師の手を経て、ヨーロッパの学者にとって初めての中国語入門書として広く歓迎された(岡本、2008)

 

. 終わりに

 ヨーロッパへの中国情報の伝播において最も重要な役割を果たしたのが在華イエズス会士である。彼らは中国語の研究以外に中国の文化、地理、政治、歴史など幅広い分野にわたって著作を残し、ヨーロッパへ情報を発信し続けた。アヘン戦争以前に、儒教経典の翻訳事業を始め、すでに中国関連の知識が蓄積された。一連の情報により、イギリスはアヘン戦争の際に有利な立場に立つことができたと考える。

 中国語の文法は『馬氏文通』(1898)より始まるという認識が一般的だが、それ以前に、宣教師による中国文法の研究が活発であった。最初はラテン語の規則を当てはめる方法で中国語の仕組みを解明しようとしたが、プレマールをはじめ、中国語自体から規則を見出すことへ発展した。また、時代につれて、漢字を次第に重視するようになった。モリソンによると、多くの宣教師は長年中国で生活していたにもかかわらず、漢字を一字もわからない人が多かった。西洋人の中国語学習者にとって、漢字の習得はどうしても避けられない難関であるが、布教活動に極めて重要なことである。なぜなら、当時漢字と漢文は東アジア地域の共通語であった。J・マーシュマは漢字を「単語」として、部首を「形態素」として、中国語の文法要素は漢字に含まれていると指摘し(何、2000b)、当時の独特な漢字観を興味深いと思った。

 

【参考文献】

狹間芳樹(2005)「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策-ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって-」『アジア・キリスト教・多元性 現代キリスト教思想研究会』第3号 55-70

西山美智江(2008)「Martino Martini(1614-1661)の『Grammatica Sinica(1653)」『關西大學中國文學會紀要』(29) 21-42

何群雄(2000a)「初期入華キリスト教宣教師にかかわる中国語教育と研究の事情について」(『一橋論叢』1242257-275

何群雄(2000b)「中国文法学の形成期についての研究:『馬氏文通』に至るまでの西洋人キリスト教宣教師の著作を中心に」一橋大学大学院社会学研究科博士論文

岡本さえ(2008)『イエズス会と中国知識人』山川出版社 78-79

 

【脚注】


[i] 中国名:羅明堅1543-1607イタリアのイエズス会士。1579年にマカオに派遣され、そこで中国語を学んだ。明代の中国に入った最初のカトリック宣教師。

[ii] 中国名:利瑪竇1552-1610 イタリアのイエズス会士。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。

[iii] 1539-1606 ナポリ王国生まれ。1573年から巡察師として活躍。1579年来日。

[iv] 中国名:衛匡国1614-1661トレントで生まれ、オーストリア籍のイエズス会士。1643年中国に派遣された。

[v] 中国名:万济国 ? -1686セビーリャの修道院で出家し、1649年福建のアモイに向け出帆。そこで、布教を続け、ドミニコ会中国伝道の基礎を築き上げた。

[vi] 中国名:馬若瑟 1666-1736フランスで生まれ、1683年イエズス会に入会し、1698年広東に着き、その後25年間布教活動を送った。

[vii] 中国名:馬殊曼 1768-1837イギリスで生まれ。1799年にインド派遣され、中国語に興味を持ち始め、ラサールというアルメニア人に中国語を習い始めた。最初に『論語』を英訳した。

[viii] 中国名:馬礼遜 1782-1834イギリスで生まれ。中国に渡った最初のプロテスタントの宣教師。最初に聖書を中国語に翻訳し、最初の「英華・華英字典」を出版した。

[ix] 中国名:衛方済 1651-1729ベルギーのイエズス会宣教師。1687年中国に入り、南方の各地で15年間宣教。