東游(ドンズー)運動

今村桜子

1.はじめに                                   

 ベトナム中部フエ出身の革命家ファンボイチャウ(潘佩珠)は、1904年に「抗仏維新会革命党(維新会)」を結成する。1905年に日本に入国し、梁啓超や大隈重信、犬養毅らと面会し武器の援助を求めるが、人材育成が急務と諭され、方針を転換する。フランス植民地支配からの解放、独立を目指し、軍事的知識と技術を持つ人材の育成を目的として、ベトナムの青年を日本に呼び寄せ、留学させる運動を始めた。これを東游(ドンズー)運動と呼ぶ。「東游」には日露戦争に勝利した日本に学べという意味が込められている。ドンズー運動について、特に日本での受け入れ教育機関を中心にまとめる。

 

2.ベトナム人留学生を受け入れた教育機関

 留学生の人数は1906年10人、1907年100人、1908年に200人いた。東京同文書院に多く入学し、入学資格が得られない者は横浜の丙午軒と名付けた日本家屋で共同生活をしたとされる(川本1981)。尚、1906年の中国人留学生は8000名余りであった(実藤1960)。

2.1振武学校   受け入れ人数:4人(田中2010)

表1

成立 1903(明治36)年 東京牛込河田町 日本陸軍参謀本部管轄  (白石2012)
特徴   清国政府が派遣する中国人の官費武学生を教育する、軍事予備学校 (白石2012)
教育科目 日本語 軍事教練 軍事科目 一般的科目 (白石2012)
教科書 日本語会話教程、日本言文課本、日本語法教程、語文教程 (吉岡2002)
教師 植木直一郎(1904-1011)他 (吉岡2002)

 『日本語会話教程』は広く基本的文法事項を織り込み、『日本言文課本』の首巻は構造シラバス、それ以降の巻は話題シラバスで作成された。『語文教程』は7巻339課と内容が多いため1906年に『日本言文課本』に改訂された。『日本言文課本』6巻目は『漢訳日本言文課本全』という書名で1~5巻の本文の中国語訳を一冊にまとめたものであり、自習用に編纂されたものである。(吉岡2002)

2.2東京同文書院  受け入れ人数:1907年60人(長岡1981)

表2

成立 1899(明治32)年 東京神田 東亜同文会会長近衛篤麿により設立 (白石2012)
特徴  中国人留学生の予備教育 修業2年 ベトナム人の特別班有り   (白石2012)
教育科目

午前:日本語 算術 地理 歴史 物理 化学 英文 修身

午後:軍事教練 (田中2010)

日本語教科書 『A Handbook of Colloquial Japanese』チェンバレン著他 (北村2009)
教師 金井保三(1900~?) 新村出(1899-1900)他  (北村2009)

 東京同文書院開設時の日本語関係科目は「日本語文法・会話・読本・語法・翻訳」であった(北村2009)。金井は清国留学生に教えるにあたり『A Handbook of Colloquial Japanese』を参照して『日本俗語文典』を書いた。『日語指南』も金井保三の著作で、初級文法項目の重なり率は67%と言われる(吉岡2002)。両著とも東京同文書院で使われた可能性があるが、実際は不明。

2.3礫川小学校 (受け入れ人数:9人)

 南部ベトナムの裕福な家の出身者。9人が10歳前後で来日。東京同文書院で学ぶには若すぎるため礫川小学校に編入。そのうち3人は1908年以降も残留。陳文定と陳文書兄弟は、早稲田大学に進学。黄文紀は中学進学後に北京軍官学校に入るが、1917年に病死する(白石2012)。

 

3.ベトナム人留学生が中国人として学んだ背景

 ベトナム人は当時フランス政府から海外渡航を禁じられていたため、渡航時も来日後も中国人を装い中国名を名乗った(潘1981)。また、留学生に儒学者や地域の有力者の子弟が多く、ベトナム国内の科挙受験のために四書五経等の中国古典を学び、漢文を読み詩歌を作る教育を受けていた(白石2012)ので、中国人に紛れて学ぶことが可能だったと推察される。そして犬養毅が大隈重信の発言を漢訳して潘佩珠や梁啓超に示し筆談した(田中2010)ことからも、日本の知識人にも漢文の素養があったからこそ、漢字がリンガフランカになり得たと言える。

 

4.畿外候(クオン・デ)

 阮朝初代皇帝嘉隆(ザーロン)帝の長男景(カイン)皇子の4代目の子孫。立憲君主制を目指す潘佩珠の勧めで「維新会」党首となり、24歳で日本に亡命し振武学校や早稲田大学で学ぶ。ベトナム独立後も帰国することが出来ず、1951年東京で他界する(白石2012)。

 

5.ベトナム人留学生の支援者

5.1 浅羽佐喜太郎

 静岡県浅羽町(現袋井市)出身。神奈川県前羽町(現小田原市)で開業していた医師で、潘佩珠を支援した民間人である。田中(2010)は浅羽が自分の病院の病棟を留学生に提供したり、多額の金銭援助をしたりしたとする。潘は浅羽の死後、浅羽の郷里に記念碑を建立した(田中2010)。

5.2 柏原文太郎

 千葉県成田町出身。東亜商業学校、精華学校、東亜同文書院、目白中学を設立。衆議院議員。数名のベトナム年少学生を自宅に引き取り世話をした(長岡1981)。

5.3 何盛三(が もりぞう) 

 東京神田出身。明治18年赤松大三郎三男として生まれる。後何家(幕府唐通詞の家柄)へ入る。教師などを経て大陸へ渡り潘と出会い、東京では畿外候をたびたび来訪したとされる(長岡1981)。

 

6.ドンズー運動の終焉

 日本政府は1907年の日仏協約締約後、1908年に留学生に退去命令を出し、留学生は帰国させられた。また母国からの仕送りが途絶えたために退学する者や、清に渡り中国語や軍事の教育を受ける者、革命運動を続ける者がいた。日本に留まる人も少数いたが、高等教育まで受けた人は僅かであった(鄧1993)。潘佩珠と畿外候にも1909年に国外退去勧告が出され、ベトナム国内ではハノイの東京義塾が閉鎖されるなどして、ドンズー運動は終焉した(川本1981)。潘佩珠は1925年に上海でフランス秘密警察に捕らわれ軟禁生活となり、日本が北部仏印に進駐した1か月後の1940年10月に死去する(白石2012)。自身で独立を果たすことはできなかった。

 

7.おわりに

 現在ホーチミン市に本校を持つドンズー日本語学校は「東遊」の精神を受け継ぐという。しかし、当時ドンズー運動を支援したのは、一部の政治家や民間人であって、日本政府ではなかった。政府は国益のためフランスとの外交問題に発展することを望まなかった。1940年日本軍の北部仏印進駐後も「日仏静謐保持政策」により、ベトナムをフランスの植民地支配から即時解放しなかった。日本人はベトナムの人から「二度裏切った」と言われる歴史を、謙虚に受け止める必要があると感じた。

 

参考文献

・植木直一郎『國史と日本精神』青年教育普及会発行

・加藤豊二(2004)「ベトナムにおける日本語教育史」『朝日大学留学生別科紀要』2(2),23-30.朝日大学留学生別科

・川本邦衛(1891)「潘佩珠小史 -その生涯と時代」『ヴェトナム亡国史他 解説』223-255p. 平凡社

・北村淳子(2009)「東京同文書院における初期日本語教育(明治32-34年)-チェンバレン本をめぐってー『インターカルチュラル』7,147-155

・実藤恵秀(1960)『中国人日本留学史』60p,66-71p くろしお出版

・白石昌也著(2012)『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子:ファンボイチャウとクオン・デ』採流社

・長岡新次郎(1981)「日本におけるヴェトナムの人々」『ヴェトナム亡国史他 解説』256-282p. 平凡社

・田中孜(2010)『日越ドンズーの華:ヴェトナム独立秘史―潘佩珠の東游(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎 明成社

・ダオ・テュ ヴァン(2014)「ベトナム・トンキン(Bac ki)における東游運動の状況と特徴」『人間社会環境研究』(27),159-171,金沢大学大学院人間社会環境研究科

・鄧搏鵬著 後藤均平訳(1993)『越南義烈史―抗仏独立運動の死の記録』刀水書房

・東亜文化研究所編(1988)「東亜同文会本史」『東亜同文会史』73-78p霞山会

・東亜文化研究所編(1988)「東亜同文会明治三十八年春季大会」第六十八回「本会記事」『東亜同文会史』396-399p霞山会

・東亜文化研究所編(1988)「東京同文書院卒業式に於ける根津幹事長の演説(明治四十年5月)」『東亜同文会報告』第九十回「本会記事」『東亜同文会史』426-431p霞山会

・潘佩珠著 長岡新次郎 川本邦衛編(1981)『ヴェトナム亡国史他』平凡社

・宮原彬(2014)『ベトナムの日本語教育-歴史と実践-』 本の泉社

・吉岡英幸(2001)「金井保三著『日語指南』の文法学習項目」『講座日本語教育』第37分冊p14-26 早稲田大学日本語研究教育センター

・吉岡英幸(2002)「振武学校の日本語教材」『早稲田大学日本語教育研究紀要』1号,91-99

 

©2014 Yoshimi OGAWA