日本軍占領下フィリピンにおける日本語教育

加藤玲子

1.はじめに

 1942年、アメリカ統治下にあったフィリピンを占領した日本軍は、フィリピンの公用語を日本語またはタガログ語と定め、日本語教育を実施した。1943年1月からは、初等教育から高等教育までの各学校で日本語が必修科目となり、日本からの文部省南方派遣日本語教育要員や、研修を受けた現地人教員が授業を担った。アメリカから1946年の独立が既に約束されていたフィリピンで、どのように日本語教育がなされたのかをまとめる。

 

2.歴史的背景

 大航海時代の16世紀初頭、マゼランがフィリピンに到達し、約330年間にわたってフィリピンはスペインの占領下におかれた。その後1899年の米西戦争から約50年間はアメリカの植民地であった。木村(1991)が「どんな小さな村落にも小学校があった」と述べているように、アメリカはフィリピン全土に学校を建てて教育を普及させた。1000人近くの教員を本国から派遣し、全児童に英語を用いた初等教育を行った成果か、1939年の統計によるとフィリピン人の識字率は48.8パーセントに達していた(多仁2006)。

 

3.軍政統治期の日本語教育

3.1.日本語教育施策

 1941年12月の太平洋戦争開戦後、フィリピンに侵攻した日本軍はマニラを占領し軍政統治を開始した。この軍政統治期の日本語教育に関する主な施策を表1にまとめる。

1942年2月 フィリピンにおける教育基本方針を訓示、軍による日本語教育の開始(多仁2006)
1942年7月  フィリピンの公用語を日本語またはタガログ語と定める(多仁2006)
1942年8月

『南方諸地域日本語教育普及に関する件』が閣議決定(多仁2006)

フィリピン人教師対象の教員訓練所の設置、小学校の日本語教師養成を開始(多仁2006)

第1回「日本語週間」の実施(神谷2000)

1942年12月

教員訓練所のフィリピン人日本語教師第1回生160名修了(神谷2000)

日本からカトリック女子宗教部隊が派遣される(多仁2006)

1943年1月

各学校にて日本語が必修科目に(多仁2006)

日本から南方派遣日本語教育要員の第1陣(69名)が到着(神谷2000)

1943年5月 日本語教員検定試験の実施(神谷2000)
1943年8月 第2回「日本語週間」の実施(神谷2000)
1943年10月 フィリピンに独立を付与、日本語は必修科目から選択科目へ(神谷2000)

表1

3.2.日本語教員

  神谷(2000)によると、1943年1月に初等教育から高等教育まで全ての教育機関で日本語が必修科目となり、小学校では毎日20分、中学校では毎日40分の日本語教育が課せられたが、それを可能にしたのが南方派遣日本語教育要員と現地人教員の存在である。

3.2.1.南方派遣日本語教育要員

 1942年の閣議決定を受けて、文部省は南方派遣日本語教育要員の募集を始めた。フィリピンに派遣された日本人教員の総数は156名(うち女性24名)であった(木村1991)。第1回生の採用は英語ができることが条件であったため、その多くの前職が英語教師で、彼らが日本語教育の中心を担っていたと考えられる(多仁2000)。フィリピン各地域において、初等・中等教育の場だけでなく、高等教育の場、官公吏訓練所のような社会人教育の場での日本語教育や、教育訓練所などで現地人日本語教員の養成・指導を担った(木下2015)。しかし、間もなく戦局が悪化し、女性教員は内地出張命令により全員帰国できたが、男性教員70数名が戦没した(多仁2000)。

3.2.2.現地人教員

 1942年8月に設置された教員養成所において、フィリピン人教師を対象とした日本語教員養成が全6回にわたって行われ、約1200名の教員が養成された。養成期間は3ヶ月半から5ヶ月で、修了した教員のレベルは『ハナシコトバ』の上から上中下を教えられる程度であった。また、1943年5月には日本語教員検定試験が実施され、初級に合格すれば小学校で、中級に合格すれば中学校で教える資格が与えられた(神谷2000)。 

3.3. 教授法

 当時の南方における日本語教授法は直説法が原則とされたが、神谷(2000)が小出先生 に直接聞き取った話によると、「基本的には直説法で教えたが、文法や語彙の説明は一部、英語で行った」、「教授内容、教授法等に関して軍政監部から何の指示もなかった」そうで、ほとんど教師の自由裁量に任されていたようである。

3.4. 教科書

 『ハナシコトバ』と『日本語読本』が使用された(中国大陸向けの教科書であったため、固有名詞やフィリピンで使用するには不適当な部分は編集)。『ハナシコトバ』は表音式仮名遣い、『日本語読本』は歴史的仮名遣いで書かれており、仮名遣いの不統一による混乱もあった(多仁2006)。

3.5.日本語普及策

 日本語普及策の一環として設けられた「日本語週間」には、各学校で「日本語学芸会」、メトロポリタン劇場において「日本語大会」などが開催され、日本語の唱歌や朗読、対話劇などが披露された(藤田1986)。また神谷(2015)に、「当時フィリピンで発行されていた日刊紙には日本語講座の欄が設けられていた」、「マニラ放送局が毎週月、水、金の30分間「日本語講座」を放送していた」とあり、メディアによる日本語普及がはかられていた様子がうかがえる。

 

3.6.学習者

 藤田(1986)は小学校の生徒について、飲み込みが早く、皆興味を持っていてよく覚える、積極的で反応がある、競争意識が強い、と述べている。しかし成人の学習者については海老原(1990)によると、異民族支配に慣れた世渡り上手から、皆ある程度の熱意を示していたが、役人などは上からの命令だからという態度が見えたという。

 

4.おわりに

 多仁(2000)は軍占領下フィリピンでの日本語教育について、語学教育の水準としては南方占領地のなかでは一番高かったと言っているが、その要因として①日本人教員の多くが元英語教師で、語学教授法を会得していた、②現地人教員に対し研究授業、輪読研究会を実施するなど、教育の質向上を目指す体制を作った、③米植民地時代に教育制度が整い、多くのフィリピン人が英語教育を通じて外国語学習に慣れていた、④日本人教員が日本語教育を皇民化教育と連動させることなく、語学教育としてのみ捉えていた、⑤アメリカの自由主義教育の影響により、教室で学生が自由に発言できる雰囲気があった、ことを挙げている。

このように英語教育による語学学習の下地ができていたことや英語という媒介語が使えたことに加え、フィリピン人の開放的で明るい国民性が、短期間で質の高い日本語教育を可能にしたのではないだろうか。

 


[1] 小出詞子先生。南方派遣日本語教育要員としてフィリピンに赴く。帰国後、日本語教育の発展に大きく寄与した。

 

参考文献

海老原角次郎(1990)「在比三年の記録―第一部 比島南端の日本語教育」『さむぱぎいた』第七集,元比島日本語教育要員の会

神谷道夫(2000)「太平洋戦争期フィリピンにおける日本語教育」『小出記念日本語教育研究論文集』8,小出記念日本語教育研究会 

木下明(2015)「占領地日本語教育はなぜ「正当化」されたのか―派遣教員が記憶するフィリピン統治―」『東南アジア研究』52巻2号,東南アジア地域研究研究所

木村宗男(1991)「戦時南方占領地における日本語教育」『日本語と日本語教育15日本語教育の歴史』明治書院

多仁安代(2000)『大東亜共栄圏と日本語』勁草書房

多仁安代(2006)『日本語教育と近代日本』岩田書院

藤田百合子(1986)「思い出の記より(2)―日本語教育点描」『さむぱぎいた』第三集,元比島日本語教育要員の会

 

WEB参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション『ハナシコトバ』下,東亜同文会(最終閲覧日2017年8月13日)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455341

国立国会図書館デジタルコレクション『日本語教科用ハナシコトバ学習指導書』下,東亜同文会(最終閲覧日2017年8月13日)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126352

 

©2014 Yoshimi OGAWA