20世紀初頭の中国における日本語学校

曹卓

1.はじめに

 中国人による本格的な日本語教育は日清戦争から2年後の1897年3月、中国史上最初の外国語学校である京師・広州両同文館から始まった。中国にとって日清戦争での敗北は、長く後れた「東夷の小国」とみなしてきた日本という小国が維新によって近代的な革新を遂げ、中国を凌ぐ国力を備えたことを認めざるを得ない。それ以後、中国は「強敵を以て師と為す」という発想のもとに、日本から近代化のための欧米の科学的知識を輸入する手段として日本語を学ぶようになったのである。その後、維新変法(1898)の機運に乗って、「東文学堂」と呼ばれる日本語学校が次々に設立され、日本語学習ブームが中国全土に広がった。中国人による最初の東文学堂は1898年に上海に設立された上海東文学社という私立の学校である。1902年の「欽定学堂章程」という近代学制が創設されたおかげで、官立の学校も目立つようになった。こうした学校は北京・上海のような大都市から、直隷、江蘇・安徽・広東・四川・雲南・湖北など広い範囲にした。東文学堂には日本人が設立したものもある。北京、上海・天津の個人塾の他、東亜同文会、日本清国屯軍、西本願寺がそれぞれ1校、東本願寺は布教活動をかねて6校を華南・華中地域で運営していた。そのほか、日中両者の共同設立による東文学堂も4校ある。

ここでは、京師・広州同文館、東本願寺の東文学堂、北京東文学社の実例を取り上げ、清末の中国における日本語学校の内容をまとめてみる。

 

2.京師・広州同文館

 日本語科の増設:1895年の日清戦争の敗北により、恭親王・李鴻章らが推進した洋務運動の失敗が宣告され、人々は政治・教育の近代的革命を経て勃興した「東夷の小国」日本に目を向けるようになった。1897年3月、かつ朝廷に「請推広学校摺」を上奏し京師大学堂の創設を提案した刑部左侍郎李端蘖の建議により、京師・広州2同文館において「東文館」という日本語科が増設された。

 

表1

  京師同文館東文館 広州同文館東文館
開校時間 3年――1897年3月~1900年 6年――1897年3月~1902年
教師 ① 東文翻訳官を務めた中国人――唐家槙
② 陶大均
③ 一年後に着任した日本人教師――杉幾太郎
日本人教師――長谷川雄太郎
学生 24名 27名
授業目的 対象言語を学びつつ、数理・化学・天文など自然科学のほか、歴史・法律・経済・医学などを学んでその専門書を翻訳する力を養う
教材   ① 新保盤次著の『小学読本尋常科』
② 長谷川雄太郎著『日語入門』
教授法 和文漢読法、漢文和訳法 対訳法とGDMの併用
授業内容
8年学制
1年目:単語・書き言葉・言葉の意味の解説、簡単な文章の講読
2年目:「句法」の解説、「条子」(簡単な公的文章のような内容が書かれたもの)の翻訳
3年目:各国の地理、歴史、一般的文章の翻訳
4年目:初歩的な数学・物理、代数、公文書の翻訳
5年目:物理・幾何学、書籍の翻訳の練習
6年目:機械、微積分、航海測量、書籍の翻訳
7年目:化学、天文学、各国公法、書籍の翻訳
8年目:天文測量、地理、金石(文献学)富国策、書籍の翻訳

 

3.東文学堂

 東文学堂は、日本語教育を施し日本文化を生徒に理解してもらおうという現在の日本語学校の状況と多少異なっていた。京師・広州両同文館の日本語教育は、戦後日増しに頻繁になった日中交渉に必要な日本語の人材を育てることが第一目的だったとすれば、東文学堂の場合はそれ以外に、創設者にも学習者にも、当時の日本で通用していた擬漢文や、漢文書き下し・漢文調の仮名交じり文を解読し、日本語訳された西洋の書物を読み、翻訳して、いち早く近代文明を導入しようという、時代の要請応じた傾向が認められる。このような時代を背景に現れた東文学堂は、中国人を学習の主体・教育の対象とし、主に日本語教育あるいは日本語を通して普通教育を行う、日本人または中国人が設立した学校のことを指し、当時において基本的に中国人設立と日本人設立及び中日共同設立の3種類があった。日本人設立の東文学堂に個人経営と団体経営の2種類があり、さらに団体経営とする本願寺系統のものが7校あった。7校のうち、東本願寺とその布教者によって設立されたものは6校にのぼり、これは中国布教に古い歴史を持った該寺の活動が「最も活発」だったという佐藤三郎の指摘を裏付けるものと言える。

表2

  杭州日文学堂 金陵東文学堂

開設

時間

1899年1月20日 1899年1月20日
教師

伊藤賢道・慧日院・監督沼僧惇

・侍読後藤葆真・清語布教使松江賢哲

と留学生樋口龍緑など

一柳智成・藤分見慶・長谷川信了など留学生
授業目的 日文を習わせることを主とし、欧文を授けることをもかねる 日本の新しい訳書や古今の書籍を以て学生に「東西格致諸学」のを授けることにある
コー ス                       ① 普通学科(15才以上)----3年
② 専門学科(普通学科卒業者)----4年
日文課:日本語そのものに関する教育項目の外、算学や格致・倫理・経済・政法・哲学などの科目も設けられる
欧文課
① 日本言語学(15才以上)----2年
② 普通学(10才から15才までの少年)----4年
教材              『日語独習書』

 

4.北京東文学社

 清末の北京においては、蔡元培などの東文書館が閉鎖して後、戊戌政変後の京師周辺の保守的勢力の新たな擡頭によって、しばらくは改めて東文学堂が開校されることはなかった。それから、義和団運動の広がりと八カ国連合軍の侵入が改革を拒んでいた清政府に更なる致命的な打撃を与え、崩壊寸前の清王朝の運命を挽回為るために、西太后は余儀なく変法の上諭を発布した。北京東文学社はまさにこのような背景のもとに設立されたものである。北京東文学社は、中島裁之が1901年3月、彼の恩師呉汝綸及び戸部郎中廉泉と協同して創ったものである。

  北京東文学社

開校

時間

6年―1901年3月~
教師 中島裁之
中国語学習兼ねて教習を担当する日本人教職員はじめ100人以上に達す
学生 随時入学可―――280余名に達す

授業

目的

長期的目的:維新の基を定める
短期的目的:東文を学習し日本の訳書を読むことを通じて西学を研究する

授業

内容

  専門学班 普通学班
曜日 9~10時 10~11時 11~12時 1~2時 2~3時
読 法 亜細亜地理 東亜之大勢 言 語 英語史略
読 法 英語史 俄清関係論 言 語 物理階梯
読 法 東邦近世史 議事院談 言語 清史攬要
読 法 亜細亜地理 東亜之大勢 言語 百工新書
読 法 清国近世叢史 俄清関係論 言語 物理階梯
読 法 政治 俄清関係論 支那教学史略(訳東文) 万国史略

注1

5.おわりに

 中国人による外国語の学習は清末からのではない。明代に中国は周辺諸国と間に盛んな交流を保っていたが、日本語の教育が必ずしも重要であるとみなされなかった。近代に入って西洋列強の「洋銃洋砲」の威圧のもとに、清末の中国は徐々に周辺諸国に対する宗主国の地位を失い、外国語教育の主たる対象も周辺諸国の言葉から西洋諸国に変わっていく。上記の日本語学校設置の目的やカリキュラムの内容から推測すると、当時の日本語教育は外圧のもとに己むをえず設けられたもので、政府間の交渉の場合に使う文章を翻訳が主で、日本語訳された西洋文明を導入し、時代の要請応じた傾向が認められる。一部には大量に渡航した日本人を活用して中国の近代基礎教育を構築しようとする動機付けが強かった。このような時代を背景に現れた東文学堂、およびそこで行われた日本語教育は実に多彩なものであった。

 

参考文献

吉田規夫・劉建雲(2010)「清末中国の日本語教育水準を代表する教科書――郭祖培・熊金寿著                      『日語独習書』」『研究集録』144、pp. 63-74、岡山大学

劉建雲(1999)「清末の日本語教育と広州同文館」『中国研究月報』53(12)、1-14、一般社団法人

             中国研究所

劉建雲(2001)「清末の北京東文学社:教育機関としての再検討」『岡山大学大学院文化科学研究           科紀要』11(1)、111-127、岡山大学

劉建雲(2000)「清末中国における東本願寺の東文学堂 」『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』          10(1)、123-143、岡山大学

 

注1 劉建雲(2000)「清末中国における東本願寺の東文学堂 」『岡山大学大学院文化科学研究科

                   紀要』10(1)参照

©2014 Yoshimi OGAWA