植民地解放後の韓国における日本語教育の変遷

樋口壮美

0.はじめに

 20世紀における韓国の日本語教育は、まさに葛藤の歴史であったといえるだろう。植民地支配下での国語教育時代(この時代の国語とは日本語のこと)と、その後の日本語教育空白期を経て、大学では1961年、高校では1973年から日本語教育は慎重に再開された。その後、学習者数は急速な伸びを見せ、1998年には日本語学習者数が世界で第一を占めるようにまでなった。短期間でこれほどまでに学習者数が伸びた要因を、日本語教育論の史的観点、その時々の政権と合わせ、その変遷に最もよく表れているといわれる高校の教育課程(学習要領)、また教科書に注目して追っていく。

 

1.日本語教育必要論の萌芽とその否定(1945年から1960年)

 米軍政庁期と李承晩政権期に当たり、日本語排除運動が起こり、日本語教育がされなかったという時期李承晩政権は硬直的な対日政策であった

 

・植民地支配期に日本は、朝鮮半島の人々の精神的な同化も目的の一つとして、日本語教育を行っていたのであるが、朝鮮人の精神を取り戻すためには純粋な韓国語が必要であり、そのために日本語を排除しなければならない、と考えられていた。

・国語浄化運動が行われた。

植民地解放直後は12歳以上の総人口の78%はハングル文盲であったという統計もあり。

韓国政府は韓国語、韓国人の精神の脆弱性に対する強烈な危機感を持つ

 

・1950年代後半に民間での日本語学校の再開を「有害行為」と位置づけ、抑止しようとしていた。

・1957年度に出版された日本語の学習書の編者は日本語教育が「国防」に役立つとした

 ➡ 日本語教育必要論の萌芽

 ➡ 市民の間で芽生えたこの論は李承晩政権の排日政策と連動した文教部の否定論により抑圧

 ➡ 公的空間で力を持てず

 

2. 日本語教育必要論の登場(1960年から1971年)

 張勉政権が誕生して、日本語教育が公認され、一部の私立大学(韓国外語大学、国際大学)と市中の日本語学校で日本語教育が再開された時期。張勉政権では自由化・民主化が進んだ。対日政策は一転して、積極的なものとなった。

 

・張勉政権での自由化。民主化の流れは文化政策にもおよび、日本の大衆文化の流入を招いた

⇩それと呼応し

・韓国外語大学・・7番目の学科として日本語科が設置される(1961年)

➡ 初めて公的空間に出現

日本語科の開設を知らせる学内誌には・・

  「自国の力を強く、豊かにするために、日本語を習得し、日本を知ることが重要。」

(世代交代が進み、ハングル世代が「外国語」として学ぶ世代になったこともこの要因のひとつ)

・施設日本語講習所の認可されやすい雰囲気 ➡ だが「時期尚早」としてまだ認可はされず。

 

 

3.日本語教育必要論の多用論(1972年から1979年)

  朴正煕政権により韓国経済は「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な成長を遂げる。対日貿易でも1970年代 前半には、繊維産業で日本を圧倒、70年代後半には造船、建設などの重化学工業で日本を脅かし始めた。

 朴正煕政権下で1973年、高等学校の第二外国語として日本語教育が導入。日本語教育の是非を巡る議論が活発化の時期。

 

・国民の反対を押し切って日本との国交正常化に踏み切る一方で、拡大傾向にあった日本語学校を

「民族の主体意識」確立に悪影響と取り締まる。

・ところが、1972年、日本との経済交流のため、また農業をはじめとする日本の書籍を読むために日本語

教育が必要であるとし、高校の第二外国語として日本語を導入すると発表。これまで日本語を抑圧してきた韓国政府が日本語必要論を主張したのである。

 

・この発表をもとに国語世代の知識人による日本語教育をめぐる議論が活発化した。

 

1974年以降日本語教育の全般的な方向性を公的に示すものとして日本語の第3次教育課程が公布される。

  ・目標・・基本語法を先に学習し、言葉の四技能を育てる  (1963-1981)                          

                     ➡場面や機能というより文法や文型中心の授業

    ・教科書内容  ・日本文化に重点を置かない     

            ・できるだけ韓国の文化や歴史、風土、経済発展について扱う

 

 

・これ以後、日本語教育は実業系高等学校を中心に急速に広まる

 

・これに対し、ソウル大学は入試科目から日本語を排除すると発表

➡ ソウル大が日本語を入試科目に採択すれば、高等学校に日本語ブームが起こりやすく、それに伴う

警戒感

  ➡ 多くの大学がその措置に追随する

  ➡ 英語優先論につながる

 

 

4.日本語研究型必要論の登場(1980年代)

 1980年代は高成長、国際収支安定、文化安定のかつてないパフォーマンスをみせた。また、韓国から日本へヒト・モノ・カネの流入も増加し、市民間の交流も活発化した(アジア競技大会86、ソウルオリンピック88)。大学の日本語教育においては日本語教育研究型必要論が主張された時期。この変容の要因の一つに韓国政府が打ち出した国際化に対備する教育政策があげられる。また日韓文化交の実態、韓国内の対日言説の変化。

 

・  日本語教育は拡大を続け、高等学校では1986年に日本語を選択した学生がドイツ語を抜いて一位になった。

・  大学・・1980~1989までの間に、新たに33校で日本・日本語関連学科が開設された

・  専門学校・・観光科、観光通訳科、航空運航科が開設される(観光産業の活発化)

・  企業内・・1982年、三星クループ内での集中コースをきっかけに現代、大宇などでも日本語教育が行われるように

      ➡ 社会教育としても拡大

・  テレビやラジオなどの教育放送での日本語講座

 

また、高等学校の教育課程における日本語教育の位置づけが変わり、教科書において日本語が担う機能にも変化が見られた。

 

・1981年には教育改革の一環として大学別の本考査が廃止、政府による共通の考査に一本化され、

それにより「脱英語」現象が起こった。

 

第4次教育課程(1982-1987)・・文教部ではなく、韓国教育開発部で研究、開発。日本語がほかの 

        外国語と同等に扱われるようになったことが大きな変化。

                                   やさしい対話能力を養うことに重点が置かれる

 ・教科書内容・・1984年からは韓国の記述が減り、日本の風土や文化を紹介する内容も含まれることになった。

 

・また韓国政府の留学緩和政策、日本政府の1983年に打ち出した留学生10万人計画と相まって、日本への留学生も増大した。

 

5.交流・相互理解型必要論の台頭(1990年代)

 韓国は民主化を果たし、日本人との交流、相互理解のために日本語教育を行うという交流・相互理解型 必要論が教育課程に登場し、言論空間を占めるのがこの時期の特徴である。近代化や経済発展といった国家の利益は後面に退き、日韓両市民の利益とみることができる友好関係の構築が前面に出された。金泳三大統領は民主化・自由化路線を一層広げるとともに、日本に対しては「未来志向のパートナー」というスタンスで積極外交を示した。また、金泳三政権では「世界化、情報化」を掲げ1994年2月、日本大衆文化を段階的に開放していく「三段階解放案」が出された。1998年10月の金大中政権では第一次解放が実施された。

 

 1980第5次学習指導要領(1988-1995)の特徴は意思疎通能力の育成が重視されるのに伴い、接触場面の提示頻度が増えた。また年中行事、土地・風土、高校野球、部活など日本人高校生の生活に関する話題、迷惑をかけたらすぐ謝るといった日本人の言語行動など取り入れられるようになった。

 

・1994年、「大学入試学力講座」が「大学修学能力試験」に改正され、日本語の学習者が減ることになった。修学能力試験では第二外国語が排除され、外国語領域が英語のみになり、日本語学習熱が急降下した。

 

 第6次教育課程は韓国教員大学主管で改正され、1996年から実施された。意思疎通機能に関する記述が別個に設けられていることから、コミュニケーション能力の育成に一層重点が置かれるようになった。また、1990年代の「交流」とは朴正煕の時代のそれと異なり、一般の市民間の日常的な交流を意味している。

 

 第7次教育課程は1997年に発表された。政治、経済の分野での交流活動、情報収集の能力といった従来の日本語教育必要論にも言及したうえで、第6次教育課程に引き続き、市民間の交流と相互理解を目指すという交流・相互理解型必要論が展開されている。ただし交流の様相については「日本文化の特徴を理解し、韓国の文化を日本に紹介させ」という具体的な説明が加えられている。第7次教育課程ではコミュニケーション能力と日本文化理解が習得目標として明示され、何よりも中学校で日本語が教えられ始めたことが、注目される。韓国での日本語教育はさらに低年齢化していった。

 

 

・1997年11月、アジアを襲った経済危機が韓国にも及んだ。1997年より英語教育も小学校の正規科目として導入されるようになったが、経済危機の韓国において日本語も就職のための必要条件と認識されるようになり、再び日本語学習者が増えていくことになった。そして、1998年には日本語学習者数が100万人近くに達し、世界第一位となった

 

・2000年度だけみても

    ・中学校の国定教科書「生活日本語」の執筆開始

 ・解放後日本語教育を閉ざしていたソウル大学での日本学講座開始(6月)

    ・韓国の全国大学修学能力試験への日本語科目参入、復活(11月)

    ・またサッカーW杯日韓共同開催決定は両国関係を共に発展していく関係とさせた。

 ・2003年9月、2004年1月をもって第4次解放を実施、これによりCDや地上波以外でのテレビドラマの放送が解禁される。

  ・この年、国際交流基金の2003年の調査によると、韓国の日本語学習者は世界のうち37.9%を占め、世界第1位であった。その大半を占める780,573人は初、中等教育における学習者であった。

 

6.ソウル大学にみる日本語教育

 ソウル大学が1994年に本考査の入試科目から日本語を排除すると発表したということは3.で述べた。

日本語の学術的な価値を認めないというソウル大学の主張は国際化の旗印の下、外国語としての日本語教育と日本研究の強化を擁護する声が高まる一方で、それを抑える声が根強く残っていたことを示している。

 しかし、ソウル大学は日本の大学との学術的交流までも否定していたわけではない。1990年には東京大学総長との間で大学次元での資料交換や留学生交流などが行われることの合意があった。また1999年になるとソウル大学は大学院で日本語教育を行うと発表、また2004年には長年の尽力の末、ソウル大学内に日本研究所が設けられるようになった。

 

7.おわりに

「0はじめに」で述べたように植民地解放後の韓国における日本語教育は「少しづつ慎重に、段階的に」

その再開を試みた。

 植民地解放後は日本の文化を受け入れることで、国民意識としての主体性に不安がある限り否定し続けたが、1980年代の韓国経済成長を通し民主化を実現、それに伴って国民意識としての主体性に対する不安は影を

ひそめたと考えられる。その結果、交流・相互理解必要論が主張されるようになった。

 一般的に敵対心や警戒心を持たなければならない相手の言葉を学ぶよりも、信頼でき、友好的な関係を築ける相手の言語を学ぶ方が学習者の動機づけも高まり、外国語学習必要論も説得力を持ちやすい。

 1980~1990年代にかけ、徐々に対等なパートナー関係を築くことができると認識されるようになったこと、日本語を学ぶ年少者数の増加と日本文化開放の時期が重なったこと、また、大学入試科目の一つとして日本語が取り入れられたことも韓国において日本語教育を拡大させた大きな要因であると考えられる。

 一度きちんと取り組んでみたいと思っていた分野だったが、取り組んでみると短期間であるにも拘らず奥が深く、多様な改革が見られた。政治から、経済政策から、教科書から、また今回は取り組めなかったが、教員や学習者からなど、探るアプローチの手段はいろいろあることが分かったが、ほかにどのようなアプローチ手段があるのか探してみたくなった。

 

参考文献

河先俊子(2013)「韓国における日本語教育必要論の史的展開」 ひつじ書房

河先俊子(2003)「韓国における日本語教育史研究の概観」2003年11月増刊特集号

河先俊子(2010)「植民地解放後の韓国における日本語教育の再開-日本語教育をめぐる言説の分析-」

言語文化と日本語教育39号

李徳奉(1999)「韓国の日本語教育界における新しい動きについて」世界の日本語〈日本語教育事情報告編〉5号

李徳奉(1996)「韓国における日本語教育の現状と課題-学習指導要領・教材開発・教員育成を中心に-」

世界の日本語〈日本語教育事情報告編〉4号

森山新(2001)「韓国における日本語教育と教員育成」言語文化と日本語教育 (21), 28-44, 2001-07

徐賢燮(2012)「韓国における日本文化の流入制限と解放」長崎県立大学国際情報学部研究紀要第13号

森田進(1979)「韓国における日本語教育」四国学院大学論集 43

小平由実子(2009)「日韓交流の中の日本語学習」

国際交流基金 韓国(2014年度)

      

資料リスト

ソウル大に「日本研究所」来月2日に開設 (2005/2/8)

ひと ソウル大日本研究所の初代所長に就任した 金容徳さん (2005/3/4)

ソウル大入試科目 日本語除外は合憲 韓国憲法裁が判断 (1992/⒑/2)

韓国の高校の日本語教育 生活文化の理解に比重 (1995/⒑/25)

 

©2014 Yoshimi OGAWA