中国とオランダの日本語教育~二か国における日本語教育の立場の違い~

教育学部1年生 中野 裕夏

 

1.はじめに
 本レポートでは、中国とオランダの二か国における日本語学習者数の変遷について、歴史的・地理的な背景を理由とした違いがあるのかどうか、また、あるとしたらどのような事が理由となって違いが生まれているのかについて調査、考察した。レポートの構成としては本論の中で上記した内容についての調査結果を記述している。考察でそこから考えられる日本語教育の立場についての違いが生まれた理由等について記述したあとに、結論として中国とオランダにおける日本語教育の立場の違いについて再度述べている。

 

2.本論
①調査内容について
 調査する内容は、中国とオランダにおける日本語教育の違いとし、日本語学習者数の変遷についてのデータを用いて二か国を比較し、その違いが歴史的な背景との関係によるものであると仮定したうえで、どのような違いがあるのか考察した。二か国の選択理由は、中国とオランダは江戸時代の日本が鎖国していた時期にも交流があった数少ない国であり、どちらも日本とは深い交流があるという共通点をもつ一方で、現在我々が抱く印象としてオランダと日本とのつながりは中国と日本のつながりよりも希薄に感じられるという違いがあるからである。

②調査結果
 はじめに、中国とオランダ、二か国の日本語学習者数について述べることとする。国際交流基金が三年に一度行っている海外における日本語教育機関調査では、中国の日本語学習者数は2009年度の調査以降世界一となり、2015年度の結果では953,283人となっている。一方でオランダにおける日本語学習者数は1,503人となっており、この違いは人口の差も理由の一つとして考えられるが、歴史的・地理的な要因も大きな理由として挙げられる。
よって次に、二か国での日本語教育が始まったきっかけについてと日本語教育の立ち位置について述べていく。中国における日本語教育は「明代に端を発するが、近代以降は清末から民国初期(1900年前後)、さらに1930年代に当時の日本から先進的な技術、思想を学ぶ必要から日本語学習のブームが訪れた」(資料1)とされており、1950年代から1960年代前半には外国語教育重視政策に基づいて、日本語を扱う学校数や日本語の文法書や教科書が編纂された。また、1972年の日中国交正常化以降はさらに、多くの大学での日本語教育の開始や各教育段階での日本語教育シラバス整備が行われるなど、中国において学ぶべき、英語に次ぐ第二の外国語として日本語が扱われていることが読み取れた。一方のオランダでは、1855年、ライデン大学に日本語学科が設立されたことを始まりに高等教育機関における日本語教育が盛んに行われている。ライデン大学のあるライデン市は江戸時代、日本が鎖国をしているさなかに長崎出島の商館付医師を務めたシーボルトが、日本から帰国した際に居住した地であり、シーボルトが持ち帰った様々なコレクションはオランダにおける日本への関心を引き起こしたであろうとされている。中国との大きな違いとして考えられるのは、オランダにおける日本語学習の位置付けである 。それについての特徴として、「オランダの大学生は、大学進学以前にほとんどが英語、ドイツ語、フランス語等、複数の欧米言語を習得しており、日本語学習は追加的な言語習得とされている」(資料1)ということが述べられており、日本語を学ぶことの重要度は中国に比べて低いことが読み取れる。

 

3.考察
 中国とオランダの日本語教育は、どちらも江戸時代、日本が鎖国と呼ばれる政策をとっていた時期にきっかけがある。このことから、日本にとって中国とオランダの二か国がつながりのある数少ない外国として重視されてきたことはもちろん、中国とオランダにとっても、島国で独自の文化を発展させてきた日本との限定的な交流(自分たち以外に交流している国がほとんどないという状況)は文化や技術面において、他国の知らない情報を得ているという点で重視されてきたのではないかと考えられる。特に、中国においては日本との距離が近いこともあり、近現代においても職業選択の中に日本にある日本の企業への就職という選択肢が挙げられやすい環境であることから、国民にとって第二外国語としての日本語という認識が高いものと考えられる。オランダと日本の距離は言うまでもなく中国と日本の距離に比べてはるか遠いものであり、他国との関わりが多いオランダの国民にとっては大陸の向こう側にある日本というのは興味の対象ではあったものの生活に結びつくような重要度の高い場所ではなく、それにともなって日本語を学ぶ理由も必要に応じてという中国のものとは異なり、教養を高めたり専門的な研究のために行われたりと一般的ではなかったとのではないかと感じた。しかし、他の欧米諸国に比べ日本語教育に踏み出した早さや、現代におけるオランダでの日本語学習者の日本への留学率の高さなどは特徴的であり、鎖国していた日本との交流があったことによって関係が深められていることは確実であると考えた。
ここで、鎖国という言葉についての新聞記事を一部引用して二つの国との関係と教育現場における言語の重要性について少し私なりの考えを述べたいと思う。2017年3月13日の読売新聞には2020年度以降の学習指導要領について、「小中学校での社会科では『鎖国』という表記をやめることにした」という記事が記載されている。本レポート中でも何度か鎖国という言葉を用いてきたが、実際には完全に国を閉ざしたわけではないことから、今後この言葉の使用は教育現場では減少していく。そのことを考えると、中国とオランダの二か国における日本との関係性の特異性は説明しづらくなるのではないかと感じた。状況の説明としてはより正しく分かりやすくなるものの、ドイツ人医師によって「鎖国論」という言葉で表現されたことをそのまま理解することで、中国とオランダにとっての日本という独自の文化をもつ島国との交流の特異さや重要さの理解につながり、日本語教育の違いということをとらえやすくなるのではないかと考えた。

 

4.結論
 中国とオランダではそれぞれ江戸時代以前から鎖国中にかけても日本との交流があった数少ない国であり、それがきっかけとなって日本語教育が開始された。しかし日本との地理的な関係性や外交政策等によって、日本との関わり方や日本語教育への取り組み方に違いがある。中国における日本語教育は多くの国民にとって第二言語として扱われているのに対し、オランダでは他の欧米諸国の言語を取得している学生が多いこともあり、さらなる追加言語として扱われているのが特徴である。このことから、二か国の日本語教育については目的が違うため、学習者数の割合に差があるものと考えた。しかし、どちらの国もそのほかの周囲の国に比べて日本語教育についての取り組みが進んでいることは明確に挙げられるものと思われる。

5.参考文献
資料1)「国際交流基金ホームページ」www.jpf.go.jp、(2017年12月25日閲覧)
『2015年度日本語教育機関調査結果』
資料2)「読売オンライン」sp.yomiuri.co.jp、(2018年1月13日閲覧)
『【鎖国】…外交の実態と違う表記』
資料3)「毎日新聞オンライン」
https://www.google.co.jp/amp/s/mainichi.jp/articles/20170215/
(2018年1月22日閲覧)『「鎖国」が消えた 小中学校の社会科から』
資料4)岩崎典子(2016)
『日本語のために移動する学習者たち―複数言語環境のヨーロッパで―』

 

6.追記事項
①発表の際の質疑応答
Q.「鎖国」という言葉が教育現場で廃止されるのであれば、何と表現したらよいのか?
A.「幕府の対外政策」という言葉を用いて、オランダや中国、アイヌや琉球との外交について説明するようになるらしい。より正確な表現にはなるが、私としては、「鎖国」の方が交流のあった地域の異質さが極まり、特別視されていたことがわかりやすいのではないかと思うが、教育現場で用いるには難しいところかと思う。

Q.1960年代(1972年の日中国交正常化の前まで)は日本語教育が一時停滞したということだったが、1940年代の戦前・戦時中でも同様に、日本への反感から日本語教育は停滞していたのではないか?

A.確かに、1930年代後半から1940年代には日中戦争や国共内線など、国内外での混乱によって旧満州の一部地域を除いて、日本語教育は停滞している。日本への反感からであるかどうかという点については、明記された資料が見当たらないため憶測になるが、その後日本語学習者数は増加し続けている点やシラバスが統一された点など、日本語教育について前向きな取り組みがなされていることを考えると日本への反感が主となる原因ではなく、国内外での混乱によって維持が難しくなった、あるいは日本語教育の重要度が下がったというのが主な原因ではないかと思った。もちろん、反感によって敵国の言語を学ぶなという流れもあったかとは思う。

 

②発表における工夫など、振り返り
レポートを見て話すのではなく、出来るだけ発表を聞いてくれている人を見て話すように意識した。また、自分の言葉で内容を説明するように心掛け、状況の説明が難しい点等に関してはイメージがしやすいよう手振りをしたり、グラフ等の資料を加えたりした。前回の発表時に反省として挙がった、より分かりやすいように資料等を用いるべきという点に関しては改善できたと思う。ただ、発表と質疑応答合わせて10分が与えられていたが、自分であまり時間を気にすることができず、少しオーバーしてしまったため、もう少し余裕をもって発表に臨むようにしたいと思った。

©2014 Yoshimi OGAWA