課題
1
アメリカ:日本研究と日本語教育
占領下の日本で連合軍の語学兵らによる大規模な調査が行われていた。これらは、アメリカの日本研究の資料として活用され、社会学や人類学の分野を大きく発展に導いた。1968年、日本がアメリカに次いでGDP世界2位へと経済成長を遂げると、日本研究は多様化していった。アメリカの日本研究や大学の日本語教育は戦前・戦中の活動を引き継ぎ、どのように展開したのか、まとめよ。
2
アメリカ:外国語教育政策と日本語教育
アメリカで学ばれている外国語科目の中で、日本語は5番目に学習者が多いという。学習者は17万人に上るが、そのうち半数以上が初中等教育課程の学習者である(2017年国際交流基金の調査)。州レベルの日本語教師会は35団体に上り、全米日本語教師会は、外国語教育協会(ACTFL)の基準にもとづき、ガイドラインや、初中等学習者向けにテスト(JLPTN5)を開発するなどナショナル・スタンダーズを策定している。アメリカの初中等段階の日本語教育について、社会状況(外国語教育政策、対日関係)や、教育現場の状況(教師、学習者、教材等)を中心に、変遷をまとめよ。
3
カナダ
日本からカナダへの移住は、1870代に始まっており、移民が渡った北西部のブリティシュ・コロンビア州は、現在も日本語学習者の多い地域である。カナダでは、1971年に多文化政策を打ち出し、公用語(フランス語・英語)以外の継承語教育の財政援助が行われるようになるなど、継承語教育に対し積極的に取り組んでいた。現在、日本語学習者の半数は、初中等教育課程で学んでいるという。カナダの継承語教育、および、外国語教育としての日本語教育の変遷についてまとめよ。
4
ブラジル
南米航路移民船がブラジルへ移住する人々を乗せて横浜港を出港したのは、1971年が最後であった。現在、推定190万人の世界最大の日系社会がサンパウロを中心に形成されている。海外の日系社会で行われていた日本語教育は、継承語教育から外国語教育へと移行しているという。戦後のブラジル日系人たちの日本語学習観について、アイデンティテイとともにどのような変遷をとげたのかまとめよ。
5
メキシコ
メキシコへの移住は、19世紀末、元外務大臣榎本武揚の出資による「榎本植民計画」で始まった。以来、多くの日本人労働者がメキシコに渡り、1906年にはアウロラ小学校が設立された。大戦中も日系人子弟に対する日本語教育は継続され、1970年代になると、日系企業の進出に伴い、大学での日本語科目が設置されるようになった。1975年には日本メキシコ学院(日墨学院)が両政府の出資で設立されている。この学校の特徴を含め、メキシコにおける日本語教育の展開についてまとめよ。
6
パラグアイ
パラグアイは、1936年に、日本人移民を初めて受入れた。第二次世界大戦の勃発により、日本語学校や青年団の活動は中断、戦後まもなく、日本からの移住が再開された。1990年代になると、元日本留学生(横浜国立大学)が設立したニホンガッコウ(小学校から大学までの一貫教育)をはじめ日本語とスペイン語のバイリンガル校が複数設立され、パラグアイ人を対象に日本式の教育が行われている学校もある。戦後のパラグアイにおける日本語教育の変遷とその特徴についてまとめよ。
7
ペルー
1899年に790人の契約移民を皮切りに、多くの日本人が労働者としてペルーに渡った。1908年以降日本人小学校が設立され、多い時には36校を数えたという。第二次大戦下には日本語教育機関は閉鎖されたが、1952年にペルーとの国交が回復すると、復活、新たに日系人学校も開設されるようになった。ペルーでは、高等教育を受けた日系人が、社会で活躍し、1980年代には日系人の大統領も誕生している。ペルーの日本語教育の展開についてまとめよ。
8 コロニア語(ブラジル)
「はよ、メルカード(=市場)行ってペーシェ(=魚)をコンプラ(=買う)せな」 ブラジル日系社会で聞かれる、このようなポルトガル語が混ざった日本語を、コロニア語と呼ぶ。コロニア語の実態と日本語教育におけるコロニア語の扱いの変遷について、1950年代から80年代の状況を中心にまとめよ。
9
JICAの報告:中南米
JICAの「事業・プロフェクト」(旧ナレッジサイト)の中に日本語教育分野の情報も掲載されている。日本語教師の派遣実績や、配属先情報などをたどると、対象者や日本語学習者、学習の目的も多岐にわたり、現地の課題も、派遣された教師の任務も多岐に渡ることがわかる。中南米は、メキシコ、ブラジル、ジャマイカなど18カ国の情報が記載されている。一連のデータをもとに、地域を選び、海外青年協力隊の報告、国際交流基金、CINII
などの情報を加え、各地の課題、取り組みの状況についてまとめよ。
10
オーストラリア
オーストラリアは、白豪主義を標榜し、外国語教育もヨーロッパの言語が中心であった。1970年代に非白人の移民を受け入れる多文化主義に政策を転換すると、言語政策も大きく変わった。日本語教育に関しては、1990年代に38万人の学習者を抱えるようになり、オーストラリアは現在も日本語教育大国の一つとして知られる。オーストラリアの言語政策や日本語教育政策の変遷とともに、学習環境の特徴についてまとめよ。
11
ミクロネシア
アジア・太平洋地域における戦前の日本の旧統治領には、当時の日本語教育の痕跡が今も残っている地域がある。現在も、日本語を維持し、運用する人々がどのような日本語を使用しているのか、「残存日本語」に関する調査がすすめられている。特に、ミクロネシアには、現地の言語に日本語が残っている地域として知られている。その特徴についてまとめよ。
12 日本語の変種
日本語が語彙を供給するピジンは、古くは16世紀の港ピジン、旧満州における協和語、占領下の日本で駐留米軍兵士と日本人の間で用いられていたBamboo
Englishなど多数存在するという。「ペケ」「ポンコツ」などは、横浜ピジンとして使用されていたものが、日本語の語彙として定着した例である。一方、近年、日本語系クレオールとして、台湾東部の宜蘭県で使用されている「宜蘭クレオール」の存在が報告されるようになった。「宜蘭クレオール」の誕生の背景と現状についてまとめよ。
13
JICAの報告:大洋州
JICAの「事業・プロフェクト」(旧ナレッジサイト)には、日本語教育分野の情報も掲載されている。日本語教師の派遣実績や、配属先情報などをたどると、対象者や日本語学習者、学習の目的も多岐にわたり、現地の課題も、派遣された教師の任務も多岐に渡ることがわかる。大洋州は、フィジー、パブア・ニューギニア、パラオなど8カ国の情報が記載されている。地域を選び、一連のデータをもとに、海外青年協力隊の報告、国際交流基金、CINII
などの情報を加え、各地の課題、取り組みの状況についてまとめよ。
©2014 Yoshimi OGAWA