課題
1 漢字の学習方法
日本語は、表記体系が複雑なことから、かつて宣教師から布教をさまたげる「悪魔の言語」と称されたこともあった。現在でも、非漢字圏の学習者にとって、習得に時間がかかる言語の一つとされている。しかし、現在ほど学習環境の整っていなかった幕末に来日した西洋人の中には、読み書き能力を十分に身に付けた者もいた。書物を読み、文章をつづる必要のあった西洋人たちは、漢字学習にどのようにとりくんだのだろうか。イギリスの外国官オールコックの文字学習に関する考え方、ロシア正教の宣教師ニコライ・カサートキンらの学習方法について、まとめよ。
2 草創期の和英辞書
日本の開国後まもなく来日した西洋人たちの中には、日本語学習書や辞書を作成する者がいた。「ヘボン式」ローマ字表記法に名を残す、アメリカ人宣教師、カーチス・ヘップバーンは、聖書の翻訳と辞書の作成に尽力した。この辞書の日本語の例文や意味記述の特徴についてまとめよ。さらに、この辞書は版を重ねたが、初版と第三版の相違点はどのようなものだったのだろうか。
3 草創期の日本語会話学習書
開国後の日本には、ヘボンに続き、多くの宣教師が来日した。彼らの中には、キリスト教解禁に備えて、日本語の学習書を作成する者も現れ、これらは来日外国人の間で広く使用された。当時の学習書2点を選び、成立過程、構成、表記、日本語の例文や文法解説の特徴についてまとめよ。なお、当時の辞書や学習書が、明治学院大学の図書館のデジタルアーカイブで公開されている。
4 草創期の日本語学習書
開国後の日本には、宣教師のほか、外交官や貿易商らも来日し、中には学習書を作成する者も現れた。特にイギリス公使館員のアーネスト・サトウやジョージ・アストンは、優れた学習書を作成した。彼らの経歴と、主な学習書を選び、成立過程、構成、表記、日本語の例文や文法解説の特徴についてまとめよ。
5 ドイツ人俘虜収容所で作成された日本語学習書
日本は、第一次世界大戦に、連合国の一員として参戦し、ドイツのアジアの拠点、中国山東省の租借地である青島において、日英連合軍として、ドイツと闘った。この結果、ドイツ人の捕虜(当時は俘虜と呼ばれた)約4700人が日本各地に収容されることとなった。捕虜と地元住民、収容所所員らとの間で生まれた交流は、小説や映画の中で紹介されている。収容所では、日本語のクラスや日本語の学習書も作成された。執筆者クルト・マイスナーとは、どのような人物であったか、日本語学習書の内容について調べよ。
6 英語教育顧問ハロルド・パーマーと日本語教育
1922年、ハロルド・パーマー(1877~1949)は文部省の英語教育顧問としてが来日し、音声教育を重視したオーラル・メソッドによる指導に尽力した。彼の理念は、当時親交のあった長沼直兄を通じて日本語教育にも受け継がれたという。パーマーの言語教育に対する理念、日本での活動、さらに、日本語教育に受け継がれていった背景について調べよ。
7 早稲田国際学院
20世紀のはじめ、清国からの留学生が増大すると、各大学が清国留学生部を開設し、日本語教育を始め予科を設けた。中でも、早稲田大学は多くの留学生を受け入れた。1921年には閉鎖されるが、今度は1930年代にハワイやアメリカ、ブラジルからの日系2世の留学生が増大すると、国際学院を開設し彼らを受け入れた。清国留学生部、早稲田国際学院とではどのような教育が行われていたのだろうか。
©2014 Yoshimi OGAWA