Ⅴ 近代の欧米ほか

 

課題

 

1 19世紀~20世紀初頭:ベルリン大学東洋語学校の日本人講師

 ヨーロッパで開講された戦前の日本語講座には、現地の講師とともに、日本人講師も教壇に立つケースが多かった。日本人講師の数は、70名(延べ人数)をくだらない。中でも、ベルリン大学東洋語学校では、創設以来、ドイツ人とその言語の母語話者がペアで教えるというシステムであったため、初代日本人講師井上哲次郎以降、多くの留学生らがベルリン大学で日本語を教えた。当時の講義要目、教員調書などは大学の古文書館に保存され、講師の着任に関する記録は、日本の外交資料にも残されている。講師の中には、回想録を残した者もいる。当時の日本語講師の人物像や授業内容などについてまとめよ。

 

2 日本語教師の提案:巌谷小波

 母語を外国語として教える経験は、日ごろ気づくことのない言語への新しい発見にあふれている。明治期の急速に近代化が推し進められる中、日本語にも新たな息吹を与えようとする提案や運動があったが、日本語教育の経験者がこれを推進したという例がある。新体詩運動をすすめた井上哲次郎も、日本語の表記法への提案を行った童話作家巌谷小波も、ベルリン大学東洋語学校で日本語を教えた経験があった。小波は、ドイツでの経験を『洋行土産』(上)(下)に記している。明治期の日本語事情を踏まえ、彼の提案内容やその後の経緯についてまとめよ。

 

3 ベルリン大学東洋語学校のランゲとハンブルク植民研究所のフローレンツ

 明治期、日本に滞在したお雇い外国人の中には、帰国後、大学で日本語や日本文学について教えた者がいる。東京帝国大学のドイツ語・ドイツ文学の講師を務めたカール・フローレンツは、1914年に開設されたハンブルク植民研究所で日本学の正教授として日本語・日本文学を教えた。彼は、20年に及ぶ滞日経験の中で、万葉集を研究し、東京帝国大学から博士号を授与され、日本の学者たちと交流をもった。なかでも、上田万年との「比較文学論争」(1895年)は、フローレンツが日本の短歌形式の原作が西洋の叙事詩の形式に翻訳されたことを発端に展開された論争である。ハンブルク殖民研究所に日本学正教授職が設置された経緯とドイツの初代正教授となったフローレンツの功績についてまとめよ。

 

4 ドイツで作成された日本語教科書

 お雇い外国人の一人、ルドルフ・ランゲは、東京医学校(現在の東京大学医学部)でドイツ語を教えるかたわら、熱心に日本語を学んだ。帰国後、ベルリン大学で初代日本語講師を務め、日本語の教科書や辞書を作成した。同じころ、同僚のヘルマン・プラウトも日本語の教科書『日本語読本』を作成した。当時の作成された日本語教科書について、紹介されているトピック、解説内容の特徴についてまとめよ。

 

5 19世紀:パリのロニーと福沢諭吉

 フランスでは、1895年にパリ大学付属図書館東洋語学校が設立され東洋の言語が教えられるようになった。日本語講座は、1863年に開設され、レオン・ド・ロニーが教壇に立った。彼は訪日経験はなかったが、日本からの遣欧使節団や留学生と積極的に交流をした。ロニーと親交を持った日本人たちの日記や回想録には、しばしば、彼の名前が登場する。その一人、福沢諭吉は、ヨーロッパに滞在中、会話は英語を用いたが、ロニー宛の手紙は日本語で書き、フリガナや英語を添えるなどロニーの日本語学習を助けたという。ロニーの功績、使節団の日記や報告に記録されたロニーをたどり、1860年代から70年代にかけてのロニーの活動についてまとめよ。

 

6 イタリアの日本語教育・日本研究

 19世紀のイタリアでは、すでに3機関において日本語が教えられていた。イタリアの初代日本学者、アンテルモ・セベリーニは、パリで中国語と日本語を学び、帰国後、フィレンツェ大学で中国語と日本語を教えた。交易都市ヴェネツィアでも日本語教育が開始され、日本人講師らが教壇にたった。イタリアの日本研究は、当時の受講生によって20世紀に引き継がれ、辞書や教科書、翻訳が出版された。20世紀に活躍した方丈記の翻訳で知られる日本学者M.ムッチョーリもイタリアの日本学史上、大きな業績を残した。セベリーニからムッチョーリに至るまでのイタリア人の日本語研究、日本研究はどのように進展したのか、人物や出版物を中心にまとめよ。

 

7 20世紀初頭:ロシアの日本語教育

 日清戦争後のロシアでは、極東問題にあたる実務家養成機関としてウラジオストック東洋学院が開設され、中国語や朝鮮語、満州語、日本語が教えられるようになった。日本語科では、スパルヴィンや前田清次らが教壇に立ち、成績優秀者は日本へ研修旅行が義務付けられた。日本の新聞は、ロシアの日本語教育について、詳細に報じた。当時の日本の各紙は海外の日本語教育をどのようにとられていたのだろうか。ウラジオストック東洋学院の日本語教師や講座について、どのようなことが報じられたか、新聞アーカイブを活用してまとめよ。なお、新聞アーカイブは、各社と契約をしている大学図書館や公立図書館で利用できるが、閲覧できる新聞の年代は異なる。日本新聞博物館の新聞ライブラリー(横浜市中区日本大通)では、全国主要紙が保存されている。

 

8 ポーランドの日本語教育・日本研究

 日本とポーランドの交流は、個人的かつ偶発的なできごとに端を発し、日本研究もその流れの中で始まった。ポーランド独立の父(ユゼフ・ピウスツキ)の兄ブロニスワフ・ピウスツキは、ロシア皇帝暗殺計画に連座しサハリンへ流刑となったが、そこで行った民俗学的調査において蠟管(レコードの前身)を残し、アイヌ研究の貴重な資料を提供することとなった。また、1919年にワルシャワ大学で始まった日本語教育は、30年代には、梅田良忠や守屋長にも引き継がれたが、ナチスドイツのポーランド侵攻により、講師らは出国を余儀なくされ、授業は中断される。当時日本語の学生であった上代文学研究の第一人者W.コタンスキーは、ナチス支配下のポーランドで秘密に日本研究を行ったという。ポーランドは、帝政ロシアやナチスドイツなど、他国の支配下にある中、どのような対日観が形成され、日本語教育や日本研究が行われたのか、人物を中心に流れをまとめよ。

 

9 オスマントルコの日本語教育

 19世紀末、イスタンブールの士官学校で日本語講座が開かれた。これは、1890年に和歌山県沖でオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が遭難し多数の犠牲者を出したことに対し、日本国内で莫大な義捐金が集まり、これをトルコに渡したことに端を発する。オスマン帳スルタンに義捐金を手渡したのは、時事新報社の野田正太郎であった。この時、野田は、トルコ側から、日本語を教えながら、トルコの言語や文化を学ぶよう逗留を依頼されたのである。野田は日本語を教えながら、新聞記者として日本向けに数々の記事を送った。野田の活動、日本語クラスの状況についてまとめよ。

 

10 フィンランドのラムステッドの言語研究

 G.J.ラムステッド(1873~1950)は、アルタイ言語学者、比較言語学者として知られているが、フィンランドではじめて日本語を教えた人物でもある。彼は、1920年より、駐日代理公使として約10年日本に滞在する間、エスペラント語で講演を行い、日本語や朝鮮語を学びながら、白鳥庫吉ら多くの学者らと交流をもち、日本の民俗学や比較言語学研究に影響を与えた。ラムステッドの日本語を含む言語研究の概略、日本人学者との研究交流についてまとめよ。

 

11 オーストラリアの日本語教育

 オーストラリアは、1910年に中等教育で日本語教育を開始し、1919年にはメルボルン大学でも日本語教育を行うようになった。一方、1930年代になると、国際文化振興会が開設され、オーストラリア駐在の日本人が日本語を教えるようになった。しかし、1941年日本軍がマレー半島に上陸すると、オーストラリアは日本に宣戦布告をし、在豪日本人は「敵国人」として収容所へ送られた。この扱いに対し、日本人講師は「日本語教育を通じてオーストラリアの国益に奉仕した自分に対し不当な扱いである」とオーストラリア政府に対し訴訟を起こした。これに対し、オーストラリア側は、「この講師の日本語教授能力はオーストラリアの国益に奉仕するほど高くはなく、きわめて稚拙であった」「彼は意図的に日本語教育を効果のないものにし、オーストラリアの国益を妨害した」「国際文化振興会はオーストラリアの国益を妨害した」と、裁判の争点は、日本語教育の教授能力から、国際文化振興会の活動目的にまで及んだ。こうした論争が起こった背景にあったオーストラリア側の日本語教育に対する認識とは、どのようなものであったのか、「国益」という視点からまとめよ。

 

12 三井高陽の文化事業

 三井高陽(1900~1983)は、三井財閥の資金をもとに、ヨーロッパの日本理解のために、日本語・日本研究を目的とした数々の寄付を行った。彼は、当地では、バロン三井の名で知られた存在である。1930年代のヨーロッパに滞在し、当地の対アジア観、対日本観を感じ取った彼は、日本政府の対欧文化事業について危惧を懐き、寄付活動を行った。三井高陽の文化事業に対する考え、彼の実施した事業とその評価についてまとめよ。

 

13 第二次世界大戦下のアメリカ:口頭能力の養成

 第二次世界大戦中のアメリカの陸海軍は、総力をあげて、敵国の言語教育を行った。これは、語学兵を養成し、諜報活動や暗号解読、捕虜への尋問などを行うことが目的であった。太平洋戦争が勃発すると、太平洋戦線全域に情報網を開設し、陸海軍はそれぞれ、任務にあたる語学兵を養成した。なかでも、陸軍は、戦線の拡大に伴い、さらなる需要に応えるため、1943年に「陸軍特殊訓練計画」(ASTP)による日本語教育を開始した。この計画は、ハーバード大学やイェール大学に委託し実施した短期集中型の語学教育で、口頭コミュニケーション能力を向上させるための訓練であった。アーミー・メソッドとも呼ばれるこの教授法は、短期間で大きな「成果」をもたらし、戦後のアメリカの外国語教育に影響を与えた。ASTPとはどのような教授法であったか。「成功」の背景についてまとめよ。

 

14 第二次世界大戦下のアメリカ:読解力の養成

 語学兵の任務の一つに、軍事文書など押収文書の解読がある。こうした任務にあたったのは、陸軍情報部語学学校(MISLS)の卒業生であった。彼らは戦局をアメリカに有利に導くのに大きな貢献をしたと言われている。この学校は、戦後、アメリカ国防総省語学研究所に引き継がれ、現在も多くの言語が教えられている。この学校の教育内容とその後の変遷についてまとめよ。

 

15 第二次大戦下のイギリスにおける日本語教育

 第二次大戦下の連合国の中で、日本語に通じた語学兵の養成に取り組んだ国に、イギリスがある。1942年2月、日本軍が英領シンガポールを占領したころ、東洋語講座を担当していたロンドン大学では、実用日本語の教育が不十分であったため、ロンドン大学東洋学部が主体となって、同年5月より語学兵養成のための日本語教育を開始した。この学校には、中産階級以上のIQの高い子弟や、ほかの外国語で優秀な成績をおさめている大学生が集められ、短期集中型の訓練を行い、1947年までに648名に及ぶ卒業生を送り出した。彼らは、東南アジアのイギリス領に派遣されたり、戦後の占領下の日本に駐留したりした。戦後、彼らの中から、日本文化や日本社会を研究し、ヨーロッパの日本学を牽引する者が現れた。ロンドン大学に開設された日本語コースとはどのようなものだったか、また、卒業生の戦後の活動についてまとめよ。

 

16 ハワイの日系人のための継承語教育

 日本から海外への移住は、1868年のハワイ移住が最初であるが、20世紀初頭には、南北アメリカにも広がった。移住地では、子弟のために日本語教育が始められたが、日本の忠君愛国教育と、移住地がすすめる同化政策のはざまで揺れた。ハワイを含むアメリカでは、外国語学校取締法(1920)、排日移民法(1924)など圧力を受けながらも、教科書が作成され、子弟たちは放課後、日本語学校に通ったという。ハワイにおける日系移民に対する日本語教育の変遷や当地で編纂された教科書の特徴についてまとめよ。

 

17 ブラジルの日系人のための継承語教育

 1908年以降、最も多くの日本人が移住した地はブラジルであった。ブラジル最古の日系教育機関として知られる大正小学校(1915年設立)において、日本語や修身、綴方、算術、唱歌、体操などの教育が行われ、日本語学校として中心的な存在となった。第二次世界大戦中、連合国側に立ったブラジルでは、日本語学校が閉鎖されたり、日本語新聞の発行が禁止されたが、バイリンガルの二世教員がポルトガル語の教育を行い、この学校を守りぬいた。ブラジルでは戦前から二言語・二文化間教育が行われていたが、この教育はどのように進められたのだろうか。

 

©2014 Yoshimi OGAWA