課題
現在、日本語を外国語として学ぶ人々は、東アジアや東南アジアに集中しているが、この地域は、戦前、日本が国策として日本語教育を推進してきた地域でもある。日本の植民地下にあった台湾、朝鮮、そして、第一大戦後日本の委任統治領となったミクロネシアの国々(当時は南洋群島と呼ばれた)では、「国語」として日本語教育が実施された。また、「満州国」や中国の占領地、英・米・蘭の支配下にあったマライ・シンガポール、インドネシア、ビルマ、フィリピンなど日本の南方占領地においても、日本語が必修化されるなど、日本語の普及が図られたのである。その期間は、台湾が最も長く、1895年から50年間、南方占領地では1942年から太平洋戦争終結までとさまざまである。
植民地支配期、占領期の日本語教育に関する研究では、日本語教育政策、知識人の日本語観やそれを支えた思想、効率的な遂行のための教授法や教科書といった視点から多数の研究がなされてきた。一方、政策決定者だけではなく、現場の教師や学習者の意識をテーマとした研究もすすみつつある。これらの教育史の研究をたどるという作業は、問題意識を持って省察することで、現代の課題が浮き彫りになり、現代を知る上でも大きな意義がある。
1 台湾:教授法
日清戦争後の1895年に、日本は清国から台湾を割譲され、1945年までの50年間、台湾を統治した。はじめての植民地経営にあたり、統治の方針を欧米の先例から、フランスのアルジェリア統治にならい、同化政策をとった。同化政策の基幹は教育、すなわち国語として日本語を習得させ、日本語で教育を受けさせることであった。その方法は、初期には、日本人教師が現地語を習得し、漢字や漢文、台湾語を使った訳読法による日本語教育を行った。当時の教科書も、日本語学習と台湾語学習をかねたものであった。1898年公学校が成立し、初等教育が拡大すると、直接法によって教えられるようになった。この直説法とれはフランスの言語学者グアンによるグアン法をもとに、日本語教師山口喜一郎が生み出したものである。これによって、台湾の日本語教育は軌道に乗ったといわれている。当時の訳読法、直説法とはどのようなものだったかまとめよ。
2 台湾:制度と展開
台湾の日本語教育は、総督府によってすすめられた。公学校制度を固め、国語講習所など教育機関を設置し、多数の教科書を編纂した。台湾の日本語教育の展開において、伊沢修二の活動、「芝山巌事件」「国語講習所」「国語普及10か年計画」(1933)「国語常用運動」(1937)とは何かまとめよ。
3 朝鮮
朝鮮では、日露戦争後の1905年朝鮮総督府が置かれ、1910年に韓国併合によって朝鮮が日本の植民地となると、日本語普及の指針となった「朝鮮教育令」(第1次~第4次)が出された。それに対し、朝鮮語学会が設立され、朝鮮語普及運動を行った。この学会の活動、教師や学習者に関する調査報告をもとに、朝鮮で行われた日本語教育についてまとめよ。
4 南洋群島
太平洋のミクロネシアに浮かぶパラオのアンガウル州の憲法には、公用語として、パラオ語、英語と並んで日本語が記されている。また、パラオ語には日本語起源の言葉が数多く存在するという。これは、戦前、南洋群島と呼ばれたミクロネシアの島々が、日本の委任統治領となり、ここで日本語教育が行われたという歴史的経緯に由来する。第一次世界大戦で連合国の一員として参戦した日本は、当時ドイツの領有下にあったこの地域を占領し、戦後、ヴェルサイユ条約によって南洋群島が日本の委任統治領となったのである。この地には、南洋開発のため、日本から多くの移住者が渡り、住民の中で日本人の占める割合が高い地域もあった。パラオでは、現在も、オキャクサン、ケイザイ、イチレツニナランデなどの日本語の単語や表現が使われている。南洋庁の官吏として渡った日本人の中に、作家の中島敦がいるが、彼は当時の日本語教育について記録を残している。南洋群島における日本語教育はどのような特徴を持つのか、制度と教育現場の実態についてまとめよ。
5 「満州国」
中国の東北部への玄関口に位置する関東州は、日露戦争後、ポーツマス条約により、租借権がロシアから日本に引き継がれ、1945年までの40年間、日本の租借地となった。関東州のはじめての日本語教育は、日露戦争中の1904年、金州南京書院で日本人によって行われた。1908年に南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立されると、租借地である旅順・大連から長春にいたる満鉄沿線付属地では、満鉄で働く多くの中国人のための日本語教育が行われるようになった。1932年「満州国」が建国されると、その範囲はさらに広がった。1938年に新学制が布かれ学校で日本語が必修化され、国家試験として「語学検定試験」制度ができた。満州でも多数の教科書が編纂された。これらを概観しながら、「満州国」での日本語教育の展開についてまとめよ。
6 中国占領地
1937年、日本軍は中国での戦線を拡大し、上海、南京をはじめ、主要都市や鉄道沿線を占領した。軍政の一環として、日本語教育は、興亜院が文部省と協力して推進した。特に華北地方では、初等教育で日本語科目が必修となり、中等・高等教育でも日本語科目の必修化が進んだ。急激な需要に対し、教材や教師の不足を補うため、文部省は中国大陸向け教科書の編纂や教師の養成に取組んだ。満州や中国占領地で日本語を教え、教科書や指導書を著した大出正篤は、速成式教授法を編み出し、山口喜一郎との間で「教授法の対立」と呼ばれる論争を巻き起こした。特に日本語教育が盛んであった華北地方での教師の養成や教授法をはじめ、当時の日本語教育の特徴についてまとめよ。
7 南方占領地と日本語
1941年12月、日本軍は米・英に宣戦布告すると東南アジアの英・米・蘭の植民地を次々に占領した。南方占領地において軍政が布かれると、その一環として日本語教育が実施された。日本語教育は、台湾・朝鮮では各総督府が、南洋群島では南洋庁が管掌したが、南方占領地では、陸・海軍が主導し、日本語教育の具体的な内容、すなわち、日本語普及に関する方策、教科書の編纂、派遣教員の養成などについては文部省が担当した。南方占領地では、日本語を「大東亜の共通語」とすることを目標に、日本語普及がすすめられたが、民族的・言語的に複雑であり、旧宗主国の言語が植民地エリート層に浸透していた地域において、文部省はどのような日本語普及構想を描いていたのだろうか。文部省で国語政策に携わっていた保科孝一が、当時の状況を記した『大東亜共栄圏と国語政策』(1942)などをたどってまとめよ。
8 マレー・シンガポール
1941年12月、日本軍はイギリスの植民地マレー半島に上陸すると、翌年2月にはシンガポールを占領した。「シンガポール陥落」は、フランスのドゴール将軍に「シンガポール陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」と言わしめたほど世界に衝撃を与えた。マレーは、イギリス統治時代に、労働力として連れてこられたインド人や中国人からなる多民族国家であったが、特に華僑の多いシンガポールは抗日運動が激しく、日本軍による強圧的な占領政策が続いた。一方、イギリス統治下においては、教授言語によって英語系、マレー系学校に分かれていたが、占領下のシンガポールでは、いずれの学校においても全学年で日本語を必修とした。また、「昭南日本学園」(日本統治時代シンガポールは昭南と呼ばれた)を設置し、井伏鱒二や中島健蔵ら文化人を動員して日本語の普及をすすめた。シンガポール建国の父リー・クワンユーは、この学園で日本語を学んだ一人であり、占領下の様子は『回顧録』に詳しい。この学園の教育内容について、まとめよ。
9 インドネシア
350年間オランダの植民地下にあったインドネシアでは、独立の獲得が長年の悲願であり、1942年に軍政統治を始めた日本軍を解放軍として歓迎した。オランダの「愚民化政策」のもと、オランダ語を普及させなかったのとは対照的に、日本軍は日本語の普及を推し進めた。オランダ語の使用を禁止し、インドネシア語の公用語化・普及をはかると同時に、日本語を小学校から大学まで必修とした。日本語学校も数多く開設された。ラジオ放送を利用し、1944年にはカタカナ新聞が発行された。インドネシアにおける日本語普及の方針と日本語教育の現場の状況(教員、教科書など)をまとめよ。
10 ビルマ
太平洋戦争開戦後、日本軍はイギリスの植民地下にあったビルマに侵攻し、アウン・サン(スーチー氏の父)率いる「ビルマ独立義勇軍」とともにイギリスと戦い、ビルマをイギリスの支配から解放した。しかし、日本軍は軍政を布き、1943年、バーモウを元首とする「ビルマ国」の建国を後押しした。この「ビルマ国」は国家主権のない名目上の独立であったものの、占領下のビルマで日本語を学校で必修科目にはしなかった。アウン・サン率いる抗日運動が展開される一方、民衆は日本軍を「解放軍」と受け止め、日本語学習に熱心に取り組み、僧侶階級の中に日本語の塾を経営する者もいたという。ビルマでの日本語教育の方針や現場の実態をまとめよ。
11 フィリピン
1942年、アメリカ統治下のフィリピンを占領した日本軍は、フィリピンの公用語を日本語またはタガログ語としてさだめ、日本語教育を実施した。日本から、文部省南方派遣日本語教育要員として英語教員らが派遣された。日本語週間をもうけたり、日本語教員検定試験を実施し、現地の教員を養成した。1946年にアメリカから独立を約束されていたフィリピンで、どのように日本語教育が推進されたのだろうか。戦後、当時の日本語教師たちが『さむぱぎいた』を編集し、当時の状況を綴っている。フィリピンの日本語教育は、語学教育として効果を上げたというが、これらをたどって、日本語教育の実態についてまとめよ。
©2014 Yoshimi OGAWA