課題
1 梁啓超と和文漢読法
清国では、政治改革運動である戊戌の変法(1898)が失敗に終わると、康有為や梁啓超らは、変法(改革)のモデルを日本に求め、日本に亡命した。日本では、数々の記事を清国に書き送り、その中で日本留学を勧めた。西洋学問を学ぶために、直接西洋に行くのではなく、日本で学ぶことを勧める理由の一つは、両国の言語は「同文」であることであった。張之洞は『勧学篇』の中で、日本語は「半年習得すれば速成出来る」と言い、梁啓超は、「日本語は学ばずに出来る」と述べ、日本留学を広く促したのである。梁啓超は、来日してまもなく『和文漢読法』を作成した。その後、この書名を借りた日本語学習書が次々と出されるほど、当時『和文漢読法』は広く知られるようになった。本書の特徴について調べよ。
2 宏文学院
明治期、急速な近代化を遂げた日本に、近隣国から、留学生を受け入れてほしいという打診が相次いだ。朝鮮からの依頼は、福沢諭吉(慶応義塾)が、清国からの依頼は嘉納治五郎(高等師範学校)が受け、ここに、近代日本の留学生の受け入れが開始された。嘉納は清国留学生のための教育機関として宏文学院を設立し、1909年の閉校までの7年間に、入学者7192人、卒業生3810人を送ったという。宏文学院とはどのような学校であったのか、当時の日本語教育について、カリキュラム、教授法、教材、教師、学生を中心にまとめよ。
3 松本亀次郎
清国人留学生の教育機関、宏文学院の教師として、後に国文法の大家や中国人留学生の父と称される、松下大三郎、三谷重松、松本亀次郎らが名を連ねる。なかでも、松本亀次郎は、嘉納に招かれ、37歳ではじめて留学生に日本語を教え始めたが、中国の近代化に必要な人材育成の重要さを痛感し、日本語教育の発展に尽力した人物として知られている。亀次郎の功績、および、彼が編纂した日本語教材の内容について調べよ。
4 清国留学生部
清国からの日本留学は、1896年の14名(補欠1名を含む)の来日にはじまり、その数は、1905年には8000人に上ったという。1907年当時、清国留学生教育指定校として、宏文学院をはじめ、現在の早稲田大学、法政大学、明治大学など19校が確認される。これらの機関では、「清国留学生部」を設置し、清国人留学生の教育にあたっていた。各大学では、どのような留学生教育が行われていたのか、日本語教育を中心にカリキュラムや具体的な教育内容について調べよ。
5 留学生向けの日本語教科書
日露戦争後の日本では来日留学生数が増大し、日本語教育の需要が高まった。それまで国内で作成されていた日本語の教科書は、宣教師や西洋人向けのものであり、「同文」の留学生のための教科書はなかったため、この時代に多数の教科書が作成されるようになった。当時の日本語教科書はどのような特徴があるのか、今日の教科書との相違点についてまとめよ。
6 清国女子留学生と実践女学校
女子留学生受け入れの先鞭をつけたのは、実践女学校創設者の下田歌子であった。欧州留学中から東アジアの連帯を強く願っていた歌子は、清国留学生部を設置し、20年余りの間に100名近い女子留学生を受け入れた。下田歌子の留学生教育の理念と教育の内容について調べよ。
7 中国の東文学堂(日本語学校)
緊迫した国内外の情勢から、海外事情に詳しい人材養成の必要に迫られた清国は、1862年に、西洋の言語と学問を教える京師同文館を設立した。ここで日本語教育が始まったのは、日清戦争後の1897年、設立から35年後であった。日本語学校は、「東文学堂」「東文館」と呼ばれ、維新変法の気運の中、中国各地に広まった。当時の日本語学校について、設立の背景、教育内容、教師、学生についてまとめよ。
8 中国へもたらされた和製漢語
漢字は朝鮮半島を経由して中国から日本にもたらされたものだが、明治期の日本では、西洋の学問や科学を受容するにあたり、大量の和製漢語が作られ、これらが中国や韓国へ輸出されるようになった。当時作成された和製漢語にはどのようなものがあるか、成立過程や中国へもたらされた経路についてまとめよ。。
9 「清国留学生取締り規則」
教育の近代化を求めて留学生教育を日本に求めた清国であったが、はからずも、送り出した留学生によって近代化を突き付けられ幕を閉じることとなった。その留学生らの日本での生活は平坦ではなかった。日本社会から孤立したり、一斉帰国運動が起きたり、中には日本で自ら命を絶つ者もいた。そのきっかけの一つが「清国留学生取締り規則」(1905)であった。この規則が施行された経緯とその後の影響についてまとめよ。
10 中国人留学生政策
義和団事件賠償金を主たる資金として「対支文化事業特別会計法」が制定され、予備教育や日本語教育を中心とした中国人留学生政策が推進された。この政策のもと、日本語教育はどのように展開されたのかまとめよ。
11 ファンボイチャウ
日露戦争終結直後の1905年、抗仏家ファンは、日本に武器の援助を求めてやってきた。「中国はすでにわが国をフランスに割譲した・・日本のみは黄色人種で新進の国であり、ロシアに勝ってからは、日増しに野心を育んでいる。・・彼らは喜んで我々を援助するだろう」と、革命の援助を求めて来日し、梁啓超の仲介で犬養毅や大隈重信らと接した。しかし、独立のためには、人材育成のほうが急務であると方策を転換し、日本留学を奨励する東遊(ドンズー)運動を広め、ベトナムから横浜に学生を呼び寄せた。現在、ベトナムにあるドンズー日本語学校はこの運動に由来する。このドンズー運動とはどのようなものだったのかまとめよ。
12 南方特別留学生
1943年から1944年にかけて、日本で初めての国費留学生205名が来日した。彼らは、東南アジアの日本の占領地から招かれた者で、当地の有力者や政治家の子弟が含まれていた。各地で「大東亜共栄圏」の将来を担う人材が集められたのである。来日後、最初の1年は国際学友会で日本語を学び、2年目は高等師範学校などで予備教育を受け、3年目以降専門に応じ各大学に配置される予定であった。彼らの中には、戦後、祖国で要職に就き、知日家として、対日交渉を担った者もいる。当時の模様や戦後の活動については、手記として、インタヴュー記事として出版されている。日本ではじめての国費留学生らが国際学友会で受けた日本語教育の内容と彼らの戦後の活動についてまとめよ。
©2014 Yoshimi OGAWA