課題
1 古代の日本語(外国語)学習
古代の東アジアでは、外交や交易、学術交流などの諸分野で中国語の知識が必要とされ、リンガフランカとして中国語が用いられていた。日本の記録には、607年に遣隋使小野妹子に随行した鞍作福利(くらつくりのふくり)や、遣唐使に随行した垂水広人(たるみのひろんど)ら通訳者の名前が記されている。当時の日本で、通訳者の養成はどのように行われていたのだろうか。
一方、白村江の戦い(663年)以降、百済からは、渡来人が日本に移り住むようになった。8世紀に入ると、唐から日本に帰化する者もおり、彼らは朝廷から日本名や位階を賜り、様々な分野で活躍した。さらに、渤海(698~926,満州からロシアの沿海地域にかけて存在した国)から使節が頻繁に来訪するなど、国内には大陸の様々な地域からやってきた、異なる言語を話す人々がいた。当時、彼らは日本語をどのように学んだのだろうか。日本語の学習や日本語通訳者の養成について、どのように記録されているのかまとめよ。
2 李氏朝鮮時代の日本語学習書
李氏朝鮮の時代(1392~1910)には、外交事務に必要な通訳官の養成機関として、朝鮮司訳院が設立され、中国語や満州語とともに日本語も教えられていた。日本語学習書として『伊路波』(1492)や、康遇聖(かんぐそん)による『捷解新語』(1676)、『隣語大方(』(成立年不明)などが作成された。特に、『捷解新語』は、江戸時代に訪れた朝鮮通信使に同行した訳官の学習書であったと言われている。朝鮮で作成された学習書の成立過程と特徴についてまとめよ。
3 唐通事
対外交渉において重責を担う通訳者は、訳官、訳士、通事、通詞と呼ばれていた。江戸時代には、朝鮮語を担当する通訳は対馬に、オランダ語や中国語を担当する通訳はオランダ通詞、唐通事と呼ばれ長崎にその本拠地を置いていた。「通詞」と「通事」の違いは何か、唐通事という組織と活動についてまとめよ。
4 朝鮮語通詞 雨森芳洲
雨森芳洲(1668~1755)は、釜山の倭館に渡って朝鮮語を学んだ。日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、朝鮮語入門書『交隣須知』を作成した。この書は、会話文からなるもので明治まで学習書として長く使用された。現代において、彼の思想と行動は、国際化時代の指針であると評価する声も聞かれる。雨森芳洲の言語教育や通訳者養成に関する理念と芳洲の功績についてまとめよ。
5 明朝時代の日本語研究
中国で、日本研究、日本語研究が盛んになったのは、明の時代である。当時編纂された書物として、『日本一鑑』『日本館訳語』『日本風土記』などが知られている。明の時代に日本に関する一連の書籍が生まれた背景、日本語に関する記述の特徴についてまとめよ。
©2014 Yoshimi OGAWA