日本語の言語変種―宜蘭クレオール

 

瀋沢羽 黄範航

 

1、 はじめに・研究目的

 言語変種とは、同一言語内における特定の集団によって話されているさまざまな語バリエーションを指し、言語の変化とも言える。台湾の宜蘭県には日本語の言語変種の一つとしての宜蘭クレオールが発見された。今回は宜蘭クレオールについての背景や特徴などをまとめ、そして他の言語変種(上海ピジンなど)も調査し各地異なる言語変種それぞれの特徴と違いを明らかにしたい。

 

2、 宜蘭クレオールの背景、分布と形成

2-1 宜蘭クレオールの背景

 台湾は日清戦争の結果、下関(しものせき)条約によって台湾は日本お植民地になった。日本の統治政策は同化政策(日本語=国語)であり、その根幹をなすのは日本語教育である。一方1985年から1945年の50年間、日本人の渡台や移民が進んでいた。

 上述の背景を踏まえ、1895年から1945年にかける日本の植民地統治によって台湾に渡った日本語は、現地の諸言語と100年以上接触しながら生き続けてきたわけがあるが、その種類が主に3つに分けられ、それらは①バイリンガルの発生②日本語要素の借用③接触による新言語の形成である。宜蘭クレオールは③に属している。

 

2-2宜蘭クレオールの分布

 宜蘭クレオールはアタヤル語・セデック語と接触した上で形成された新しい言語のことであり、台湾東部の宜蘭県に住む一部のアタヤル人とセデック人によって用いられている。その主な使用地域は、宜蘭県の東岳村(nihongo、tang-owなど)・金洋村(kinus no hanasiなど)・澳花村(日本土話、zibun no hanasiなど)・寒渓村(kanke no hanasiなど)の4つの村である。その各地で様々な呼び方がある。

 

2−3 宜蘭クレオールの形成

 宜蘭クレオールの形成の主要因は、日本による原住民の集団移住政策であった。日本統治時代に入ると、1910年に南 澳山地の各地に住んでいた人たちは、集団移住 政策によって、平地や海岸地帯への移住を強制させられることになり、元の人はバラバラになった故、異なった集団の人が集まって新たの集団を作っていった。その新たの集団で異なった言語接触で言語変化が生じ、その中で一つはセデック語とアタヤル語のシフトで、もう一つは日本語を採用するシフトである。

 

3、 宜蘭クレオールの特徴とその例

3-1 語順

 宜蘭クレオールの語順は日本語と同じSOV言語であるが、若者の間でSVOの使い方もあると示されている。その理由は中国語定型表現の干渉があるという仮説がある。

・wasi gohang tabeta.(私はご飯を食べた。)←SOVの例

・wasi sony mita hoyong.(私先ほど犬を見た。)←SVOの例

 

3-2 語彙

 宜蘭クレオールの中で各言語の出自比率:日本語から出自の語は約65%、アタヤル語出自の語は約25%、中国語・閩南語出自の語は約10%である。

 

4、 宜蘭クレオール以外の中国大陸のピジン語

4-1広東ピジン(アヘン戦争まで)

 

 

 

1600年

 

 

1613年

1808年10月

1823年

 

1830年

 

1837年

1894年

 

「リーフデ号」ウイリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステン(八重洲))が漂着

イギリス使節が来日

フェートン号事件

王立アジア協会をロンドン開設

メドハースト 初の英和辞典『和英英和辞典』

モリソン号事件

日英通商航海条約

1644~1684年

 

1685年

1699

 

1725

1736~1762

 

1815年

1823年

1835~1840年

 

18401842

イギリスと中国の初期の交流

(政府主導、マカオ人仲介)

勅令により広東が貿易のために開港

イギリスは貿易のために「ファクトリー(夷館)」の建設を許された

「典礼論争」

ジェームス・フリント(洪任)事件

ロバートモリソン(ロンドン伝教会)『華英辞典』

『漢訳聖書』

『紅毛通用番話』(「赤い髪の外国人が話す言葉」)

アヘン戦争、香港割譲、5港開港

 

 

 

 

 

 イギリスと中国の最初の接触は、主に貿易を目的としたものであった。しかし、イギリスよりも先にポルトガル人が中国に到来していたため、1644年から1684年にかけて、清国は主にマカオのポルトガル人を仲介としてイギリスとの貿易を進めていた。18世紀半ばまで、当時の旅行者によると、現地の中国人と交流する際に、英語とポルトガル語が混ざった混合言語を使用していた状況である。

 その後、イエズス会は「文化適応主義」を採用し、中国における布教活動を進展させたが、1725年に「典礼論争」が発生し、中国人の祖先崇拝を文化適応の一環として扱うべきかが問題となった。その結果、先祖崇拝は「文化適応」ではないと認定され、清国でのイエズス会の活動は大きな打撃を受けた。さらに、1736年には広東に住んでいたジェームス・フリント(James Flint)が広東政府の賄賂問題を解決しようと天津に赴き、広東貿易に関する嘆願書を皇帝に提出した「ジェームス・フリント(洪任辉)事件」が発生し、清国の対外政策に大きな影響を与えた。フリントはマカオで3年間投獄され、その後中国から追放されてしまい、外国人が広東以外の港を使用することが禁止され、さらに外国人への中国語教育も厳しく制限され、違反者には死刑が科せられた。

 このような外国人が中国人とコミュニケーションを取れる場所を広東に限定されるようになった背景のもと、広東で外国人が使用していた言語が「番話・鬼話」と呼ばれるようになり、1835年から1840年にかけて、広東ピジンが形成される過程を記録した重要な資料の一つである『紅毛通用番話』という書物が出版された。

 

4-2上海ピジン

 ジェームス・フリント事件をきっかけに、外国人を広東以外の港に立ち入らせず、広東を中心とした閉鎖的な貿易体制が長期間にわたり維持されたが、1840年から1842年のアヘン戦争によってこの状況は一変した。南京条約により、中国は上海を含む五港を外国に開放し、上海は貿易の拠点として格段に重要な地位を占めるようになった。これに伴い、商機を求める外国商人と地方商人が急速に流入した。こうした状況の中で、「洋涇浜」と称された中英混合語が自然とコミュニケーション手段として形成され、人的・物的な交流を支える役割を果たした。「洋涇浜」とは、上海市内を貫く黄浦江の一支流の名称であり、五港開港後、英仏租界の境界線とされ、「洋涇浜英語」とは、主に洋涇浜周辺の租界エリアでの日常的な貿易に使用された上海のピジン英語を指す。

 

3-3 中国英語ピジンの特徴

 ① 発音について、発音が難しい音節は単純化されたり、よく似た他の子音で代用されたりする。二重子音や語尾が子音で終わる英単語は、中国人の発音しやすい母音や音節が付け足されるほか、子音が取り除かれることがある。

 ② 語彙量は非常に少なく、一つの単語に複数の意味を持たせるケースが多い。語彙の淘汰が頻繁で変化が激しい。

 ③ 文法面においては、基本的に中国語の語形や語順に合わせられている。

 ④ 語源面について、中国のピジン英語にはポルトガル語由来の単語が混在している。

 

5、 まとめー宜蘭クレオールと中国英語ピジンの差異

 

 

宜蘭クレオール

中国英語ピジン

背景

日本の植民地統治と原住民の集団移住政策・同化政策

貿易拡大と外国商人の流入、戦争、条約などの影響

機能

地域のコミュニティ内でのコミュニケーション手段として機能し、日常生活や文化の表現に使用される

主に外国人との貿易や商業取引に使用され、限られた語彙と簡略化された文法が特徴である

文法構造

日本語の文法を基盤としつつ、アタヤル語とセデック語の特徴を取り入れたハイブリッドな構造を持つ

基本的には中国語の文法構造に基づいており、単純化された英語が使われ、語順も中国語のままである

地域分布

台湾東部の宜蘭県の特定の村(南澳郷東岳村、金洋村、澳花村、大同郷寒渓村)で主に使用されてい

広東省と上海市を中心とする貿易港で広く使用されていました

社会容認度

コミュニティのアイデンティティ: 最初は互いのリンガフランカ(共通言語)として使い始めたようで、現在は既に地域の文化とアイデンティティの重要な一部として受け入れられてい

実用的なコミュニケーション手段: 最初は「番話」「鬼話」と呼ばれていた。主に貿易と交流のための実用的な手段として認識されていたが、日常生活ではあまり使用されなかった

 

 

 

参考文献

真田 信治(2015)「日本語系クレオール語の形成プロセス」『社会言語科学』第17巻第2号、pp. 3-11

簡 月真・真田 信治(2011)「台湾の宜蘭クレオールにおける否定辞――『ナイ』と『ン』の変容をめぐって――」『言語研究』第140号、pp. 73-87

洪 惟仁・許 世融(2017)「宜蘭地區的語言分佈」『國立台中教育大學』、pp. 57-122

高田 時雄(2017)「ピジンと漢字――中国における交易言語」『大手前比較文化学会会報』第18号、pp. 23-28

萩原 亮(2018)(2019)「中国沿岸ピジン――その資料と背景(上)(下)」『或問』第34号、pp.93-106, 第35号、pp.83-98

張 玥(2024)「洋涇浜英語から見た晩清期の上海語音」『東アジア言語文化研究』第7号、pp.146-157