戦後台湾の日本語世代
飯泉李子・今村桜子
0.はじめに
戦前日本の台湾統治下で日本語教育を受けた世代(日本語世代)は、戦後厳しい言語環境下に置かれた。本発表では戦後の政治状況が言語政策、日本語教育に及ぼした影響について述べる。まず年表で政治状況の変化を概観し、戦後間もない時代と現代の日本語世代について見ていく。また日本語世代については台湾人留学生からの聞き取り調査によって得られた情報も補足して述べる。
1, 年表
以下の表は主に三浦(2016)、国際交流基金ホームページを参考に作成した。
年 |
社会政治状況 |
日本語、日本語教育への影響 |
1945
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日本敗戦 台湾統治権が中華民国へ |
台湾においての国語が 日本語から中国語(北京官話)へ移行 |
1947 |
過渡期(政権交代) 二・二八事件 |
政令の伝達の為に日本語使用を許可したが、言語は民族統一の象徴であるという考えから学校での日本語使用を禁じられた。 「国語至上主義」 |
1949 |
戒厳令施行 |
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1952 |
「日中講和条約締結」
(日華条約、日華平和条約) 台湾と日本の間で結ばれた平和条約 |
日本語が外交面で重要になる。 公で禁止されていた日本語が「補習班」でのみ教えられるようになった |
60年代 |
日本が高度経済成長期に入る。 |
経済成長の為、日本語教育が重要になる。公的な教育の必要性が見えてくる。 続々と私大において「日本語専門課程」が開かれる。 |
1963 |
中国文化学院 |
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1966 |
淡江文理学院 |
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1961 |
輔仁大学 |
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1972 |
「日中国交正常化」台湾人の反日感情が湧きあがる しかし経済発展に伴い、日本との貿易は強化された。 |
東呉大学を最後に日本語専門課程の開設は一時的に終了 日本との貿易の為、日本ができる人材が重宝されるようになる。 |
80年代 |
台湾の経済発展も目まぐるしく 日本との経済的繋がり、文化的繋がりは捨てられなかった。 |
ビジネスの為には日本語が不可欠になる。 |
1980 |
国立台中商業専科学校に応用外語科日本語専門課程が設置された。 |
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1981 |
国家公務員の外国語教育が開始 |
外国語教育には日本語も含まれた。 教育部所属の教育ラジオにて日本語講座開設 |
1983 |
財務部に「日語人材養成班」設置 淡江文理学院に修士課程設置 |
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1985 |
経済部に「日語人材養成班」設置 |
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1987 |
厳戒令解除 |
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1988 |
日本への留学経験のある李登輝総統が誕生し民主化の流れが進む |
言語政策に変化が見られる |
1993 |
ケーブルテレビの申請許可開始 NHKの連続ドラマが放送開始 「新修定大学共同必修科目領域表」施行 |
メディアにおける日本語が解禁され、日本語教育が推進される環境が整う。 大学での第一外国語として「日本語」が選択可能に |
1994 |
台湾の最高学府 国立台湾大学において日本語文革学科、日本語学科設置 |
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1995 |
「高級中学選修科目第二外国語標準」に日本語が組み込まれることに |
後期中等教育でも日本語教育が制度上全面的に導入 |
1996 |
第二次李登輝政権が発足 教育改革が行われ、台湾の歴史認識が改められる。 |
日本に対する考えが大きく変わった。 銘伝大学において総合大学初の応用日本語学系が解説された。 |
表1 戦後台湾と日本語教育史
2.戦後の日本語世代の日本語使用状況
2.1 終戦(光復)と、政治状況の変化
1945年8月15日の終戦によって、台湾での日本による植民地政策は終了し、39.6万人いた日本人は国外退去処分となり、台湾を去った。台湾は祖国中国に返還され(光復)、日本の総督府に代わって、台湾省行政長官公署が台湾の統治機構となった。
1947年2月27日に、台北市で専売局の取締官が闇タバコを販売していた未亡人の台湾人女性からタバコを取り上げた事件に端を発する、「二・二八事件」が起こる。民衆のデモに警備兵が発砲したことで混乱が広がり、当局はそれを武力で鎮圧し、台湾人エリート達を中心に、5千~2万人ともいわれる人が虐殺されたと言われている(甲斐2013)。甲斐(2013)では、台湾人高齢層からの手紙の内容として、「本島人知識階級が殺され今の台湾同志もお互い信用できない世の中になりました。日本人の走犬としてケナされ二等国民として我々台湾人を扱っています。」との声を紹介している。
その後1950年代に入ると、「白色テロ」と呼ばれる思想犯の取り締まりと逮捕、虐殺が行われ、台湾人の国民党政府に対する怒りや不信を招き、過去の日本時代への懐古が増すことになった。
2.2 言語政策の転換(日本語禁止時代)
光復後、国民党が台湾に亡命し、国民党政府のもとで北京官話が「国語」とされた。当時、日本語は多民族・多言語社会の台湾における共通語として機能しており、「国語」が普及するまでには一定の時間が必要であったはずだが、新台湾省行政長官陳儀は、台湾人が日本語に慣れていたことを「奴隷化」の表れとみなし、急進的な言語政策によって「祖国化」を図ろうとした。
1946年10月25日に「新聞雑誌の日文(日本語あるいは日本語文章)が廃止されることが決定された。これに対し、本省人は新聞等で反対意見を表明する等、各県市の参議会において、日本語廃止に反対する決議案や建議案が相次いで可決されるなどの反対運動がおこった(何2007)。しかしその後も日本語に関する様々な禁止令が段階的に施行されたのに続き、1949年に戒厳令が発令されたことにより、公共の場における日本語使用が禁止され、日本文化も排除された(佐藤2013)。
また、台湾語(本省人が話す閩南語、客家語、原住民諸語等)は、読み書きには用いられない生活言語であったが、1960年代には罰金、体罰などによって学校内での台湾語使用を禁止する政策が採られ(甲斐2013)、これは1993年に禁止条例が撤廃されるまで続いた(簡2000)。
つまり、戦前に「日常」の中で使っていた台湾語も、教養を得たり知的好奇心を満たしたりするための手段として用いられてきた日本語も、ともに失ってしまったのである。それに伴い、「国語」しか分からない若い世代と意思疎通が図れないなどの不都合も生じることとなった。
横浜国立大学の台湾人留学生(Aさん)の話によれば、ある方は日本統治下で医学を学んだが光復後、国語(北京官話)が分からない為医学免許を取得出来なかったそうだ。
3 現代の日本語世代の日本語使用状況
3.1 政治背景と言語政策の転換
光復後、北京官話が「国語」とされた。台湾語は日本語と共に公的な場やメディアでの使用を厳重に制限されていたが、その状況は、1980年代の後半から、変化を見せる。
台湾の経済発展に伴い、本省人が政治的地位を上げ、1988年には本省人の李登輝が総統に就任した。このような政治的変化に伴い、言語政策も変更され、テレビやラジオで台湾諸語を用いた番組も放送されるようになった。出版業界や教育界でも台湾語の言語や文化が扱われるようになった。
日本語教育が再開されたのは、1963年に私立中国文化学院(現:中国文化大学)に高等教育機関として戦後初の日本語学科が設置されてからであり、国立大学に日本語科が設置されたのは、1987年に戒厳令が解除されたあとの1990年代以降である。
台湾の本土化や民主化、李登輝総統の就任などの政治的変化に伴い、長期にわたった日本語や日本に対する抑圧からも解放され、人前で日本語を話す光景が見られるようになった(甲斐2013)。
3.2 日本語の使用状況と特徴 (簡2000)
3.2.1 いつ・誰と話すのか
1)下の兄弟・配偶者・老年層隣家との会話
2)教会における心の中での祈りや、買い物をするときの暗算
3)市場での買い物など異なる言語集団の老年層との接触場面
Aさんは、日本語学習を始めた際日本語世代の方が日本語の会話練習を一緒にしてくれたと話していた。
3.2.2 日本語の特徴
1)アスペクト形式「とった」の運用 | 「置いてある」→「置いトル」 |
2)「でしょ」の多用 | 「みんな痩せとったんデショ。」 |
3)丁寧語と普通体の混在 | |
4)拡張使用 | 「話」→「言語」、「言う」→「話す/話せる」 |
5)類推による造語 | 「福音スル」「感冒スル」 |
Aさんは日本語世代の方との会話において「知らん」「食う」などの所謂マス形ではない言い方に戸惑ったと話していた。
4. おわりに
台湾における日本の植民地支配と日本語教育というのは、その後の影響の大きさを考えると、強権的な同化政策と呼べるものであり、反省すべきものだと、これまでは考えていた。今回様々な文献やインタビューにより、実際に台湾の人々と接した技術者や教師などの日本人の熱意や功績は、当時の日本の政策とは別に考察する冷静さが必要であることを学んだ。
日本が台湾を統治していた際に行った皇民化運動は決して許されるものではないと考える。そのような政策を行った日本に対して、なぜ台湾の人々は悪い印象を持っていないのか不思議に思っていた。戦後、日本語世代が置かれた環境を見てみると、日本語と台湾語しか出来ない為に言いたいことが言えない等、不利益を被ることがあったようだ。また李登輝のような日本留学経験のある総統が就任し、日本に対するイメージを大きく変えた。様々な要因が重なり、現在でも日本語を覚えている日本語世代や日本語を学ぶ若者たちが多いのかもしれない。このように台湾の人々が親日感情を持っているからといって、日本人は統治期に日本が行った事を肯定してはいけない。日本語教師として日本とある国との関係を自分にとって都合の良い面だけではなく多角的に知る必要があるのではないかと考えた。
参考文献
・井出祥子(1992)「言語とアイデンティティー」『月刊言語』第21巻第10号 大修館書店
・何義麟(2007)「戦後台湾における日本語使用禁止の変遷―活字メディアの管理政策を中心として」古川ちかし、林珠雪・川口隆行(編)『台湾韓国沖縄で日本語は何をしたのか』三元社 58-83
・甲斐ますみ2013『台湾における国語としての日本語習得―台湾人の言語習得と言語保持、そしてその他の植民地との比較から』
・甲斐ますみ(1997)「台湾人老年層の言語生活と日本語意識」『日本語教育』93号 日本語教育学会
・金子尚一(1997)「台湾」『月刊言語』第26巻第11号 p122-132 大修館書店
・簡月真(2000)「台湾の日本語」『国文学 解釈と鑑賞』第63巻7号 p113-121至文堂
・合津美穂(2002)「漢族系台湾人高年層の日本語使用―言語生活し調査を通じて」『信州大学留学生センター紀要』第3号 p25-44
・佐藤貴仁(2013)「現代を生きる台湾日本語世代の日本語によることばの活動の意味」『言語文化教育研究』11号 p391-409
・周婉窈(2007)『図説 台湾の歴史』平凡社
・戴(タイ) 國煇(クオフェイ)(1986)「漢族系住民の言語と歴史」『もっと知りたい台湾』p1-31 弘文堂
・月田尚美(1997)「台湾」『月刊言語』第26巻第11号 p25-29 大修館書店
・三浦大明(2017)「戦後台湾における日本語の地位と日本語使用意識の変遷‐文献とヒアリング調査から」横浜国立大学修士論文
・李久惟(2015)『台湾《日本語世代》がどうしても今に伝え遺したい 日本人に隠された《真実の台湾史》』株式会社ヒカルランド
国際交流基金ホームページ 2017.6.26閲覧
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2016/taiwan.html#RYAKUSHI
©2014 Yoshimi OGAWA