インドネシアにおける日本語普及への取り組み

―日本語教師の立場からー

大政美南・宋欣玥

 

1.はじめに

 インドネシアと日本の交流の歴史は17世紀までさかのぼることができる。日本による占領、戦後賠償を経て、現代に至るまで経済的交流だけでなく、人的交流も盛んに行われるようになった。それぞれの時代で、日本語教育を広める取り組みが行われてきた。今後、我々が日本語教育に関わる限り、日本語の普及活動は必要になってくるだろう。そこで、今回は日本語普及のための日本側の取り組みに着目して、通時的に見ていく。今回は各時代を特徴づける特に重要な事柄について扱う。

 

2.インドネシアの日本語普及の歴史

 インドネシアで制度として日本語教育が行われるようになったのは第二次世界大戦中の日本軍政下である(吹原 2007)。しかし、それ以前にも日本とインドネシアは関係を築いてきた。その長い歴史が今日の強い日尼関係につながっていると考えられる。そこで、本発表では第二次世界大戦前、大戦中と戦後、現代の3つの時代に区分し、日本側が行ってきた日本語普及活動を見ていく。

 

3.17世紀から第二次世界大戦まで

3.1 日本町

 日本とインドネシアの関係が始まったのは17世紀だと言われている。当時朱印船貿易で海外に渡航し、移住した日本人は数多くいる。また、インドネシアはオランダが統治をしており、労働力不足を補うため、「日本人300人輸送計画」を発案した。その結果、225名の日本人がインドネシアに送られた(岩生 1987)。そうして、日本町を形成していった。しかし、その後鎖国政策が採られたため、新たに渡航することもできず、渡航したものも帰国することができず、次第に日本町は衰退していった。

3.2 日本語教育

 日本町時代に日本語教育がなされた記録はない。最も古い記録は、1903年にイギリス商社バタビア支店勤務の日本人によって日本語講習会が行われたものである(百瀬 1998)。1934年にはバンドゥンのクサトリアン学院に日本語教育が導入された(渡辺 2007)。百瀬(1998)によると、日本から教師が招聘され、日本語教科書の制作も行ったことがわかっている。

 

4.日本占領時代下のインドネシア日本語教育

4.1 日本のインドネシア支配(1942~1945)

 1941年12月8日太平洋戦争に突入するとすぐ、日本軍の南進は急速に進行し、1943年3月までにインドネシア各地は三地域に分割され、各地は順次日本軍(陸、海軍)に占領された。日本軍は以後敗戦までの約3年半、インドネシアを軍事的に支配することになる(百瀬 1990)。

4.2 言語政策

 ①オランダ語の使用禁止 ②インドネシア語の公用語化 ③日本語の普及

②の方針をとった理由:多民族・多言語のインドネシアを効率よく統治するにはインドネシア語を共通語として用いるのが実際的・現実的であった。また日本語普及活動において、「日本語を通じて日本精神、日本文化を会得させ、浸透すること」を目的として、さまざまな政策を取ることで3年半の日本軍政の間に急激な勢いで日本語が普及していったのである。

 

4.3 「日本語普及」のための政策の展開

実施地域:ジャワ(インドネシアの人口の約7割が集中し、教育の中心であった)。

軍政監部は日本語普及させるために精力的に様々な政策を実行した。

 

                表1「日本語普及」のための政策

事項 内容 影響および結果
 ①インドネシア人日本語教師の養成

対象:インドネシア人現職教師

中央機関:ジャカルタに男子教員錬成所と女子錬成所。

講習科目:修身、日本語、日本事情、日本唱歌など。

教師の養成にかなり時間を要するため、1944年時点で錬成所の修了生は男女合計1011名にすぎない(規定通りに数万人必要になる)。
②学校教育への「日本語」導入

日本語は必修科目として国民学校から大学に至るまですべての学校で教科目に入れられた。

それぞれの学校の状況によって日本語教育の時間数や教育の質にかなりの差があった。
③社会人に対する日本語教育

各地に日本語学校が開設され、日本語講習会が実施された。

官庁、商社、工場などでは仕事を通じて実用日本語が教えられ、軍隊では軍隊用語を中心に教育が行われた。

 

社会人に対しても日本語教育の量的な拡大を急速に進めた。(官庁、商社、工場などの組織の利用が日本語普及を促進した最大の要因)。
④教科書・辞書の編纂

学校用:「日本語巻五」「日本語巻六」

一般用:「ダレニモデキル ニッポンゴ」

辞書: 「日馬簡易日本語集」

学校用教科書は日本の国民学校の国語や修身からの素材が多く、日本色が強い、社会人用の教科書は実用性の高いのもが多い。
⑤日本語普及推進のための事業

Ⅰ日本語学力試験(対象:官庁職員、商社の社員など)

Ⅱ日本語競技会(対象:児童生徒)

日本語への関心を高め、学習意欲を向上させる役割を果たした。
⑥マスメディアによる日本語普及

Ⅰラジオ放送による日本語講座

Ⅱ新聞報道による日本語普及

大衆への日本語普及を効率よく行った。
⑦公務員試験科目への日本語導入

初級―高級の公務員用試験のすべてに日本語の試験課せられた。

インドネシアで安定した職業を得るために、日本語学習が不可欠なことを示した。

表1は、発表者(宋)が百瀬(1990、1998)をもとに作成

 日本軍によるインドネシアの占領は3年半で終わったが、日本軍政当局は驚くほどの精力で強制的かつ意図的に「日本語普及」のための政策を実行した。当時の日本軍政下のインドネシアの教育政策および言語政策において、「日本語普及」がもっとも重要な課題だと言えよう。

                                 

5.戦後の日本語教育

5.1 歴史的背景

 第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、日本の占領時代が終了となった。戦後1958年、日イ平和条約締結により、日本とインドネシアは公的な外交関係を開始し、戦争賠償協定が結ばれた(河崎 2016)。これにより留学生や研修生に日本語教育を受ける機会を与えることになり、多くの留学生や研修生が来日した。また日本文化学院にて機関における日本語教育が開始された。

5.2 コロンボ計画

 1950年1月にセイロン(現,スリランカ)で開催されたイギリス連邦外相会議により設立が決定された経済協力機構である。日本は1954年に加盟することによって、資金的,技術的にインドネシアを援助し,その経済開発を促進しようとなってきた。

支援活動:日本語教育の専門家がインドネシアへ派遣。

影響:更に日本語教育の専門性が高まる。

 よって戦前、戦後のインドネシアにおける日本語教育の普及は、日本軍による支配的なものから技術協力の一環として変容してきた。

 

6.現代までの日本語普及活動

 戦後、インドネシアにおける日本語教育は東南アジアの中でも早い時期に始まった(吹原 2007)。今回は、次の3点について詳しく見ていく。まずは、1960年代の大学における日本、日本語研究の開始、第二に、カリキュラム改訂による変化と、動向、第三に日本・インドネシア経済連携協定(以下EPA)による介護福祉士、看護師候補者の受け入れという順に追っていく。

6.1 高等教育機関における日本語教育

 1962年に高校における選択科目としての日本語教育が始まった。その背景には日本の高度経済成長と日本企業の進出がある。以下に主な流れを示す。日本側の活動の特徴を見ると、当初は教師を派遣して、日本語教育の底上げを行っていたが、拡大すると共に、現地主義に基づき、成長をサポートする役目を果たしていることがわかる。吹原(2007)では、インドネシアでは各地に日本語教育が浸透している半面、人材不足が目立つ。そこで、大学などの教師養成機関にこそ支援が必要だと述べている。

 

表2高等教育における日本語普及

年代 概要 詳細 日本からの支援、普及活動
 1960年代~  主要都市の大学に日本語学科、日本語教育学科が設立される

・1963年パジャジャラン大学日本語日本文化学科

・1965年バンドゥン教育大学日本語学科

・1967年インドネシア大学日本研究講座

⇒日本語教育専門家派遣

 

 

 

⇒日本政府による寄付で講座開設、教授の派遣

1980年代~ 地方の大学、私立大学に日本語関係の学科が設立される

・1981年スラバヤ教育大学日本語学科

・教師間のネットワークづくり

・体系的な研修会の実施(1988年~)

1990年代~ 大学院レベルに拡大

・1990年インドネシア大学大学院(修士)

・1995年インドネシア大学大学院(博士課程)

  表2は、発表者(大政)が国際交流基金のウェブサイト、吹原(2007)、古川他(2015)をもとに作成 

6.2 ダルマ・プルサダ大学

 戦後の賠償協定に基づき、1960~65年の間に1335人が賠償留学生として、日本に留学した。彼らは両国の友好関係増進に貢献するため来日し、国際学友会で1年の予備教育を受けたのち、全国の大学へ送られた。そして、卒業後、同窓会(プルサダ)を作り、友好活動を進めた。その一環として、1986年にジャカルタにダルマ・プルサダ大学を設立した。当初より日本語学科を設置している。教授陣の大半を日本留学経験者が占めている親日派の大学で、日本各地の大学と交流している(1994年9月27日付 朝日新聞朝刊)。

 

7.中等教育における日本語教育とカリキュラム改訂

 インドネシアにおける日本語学習者数は2015年で745125名である(国際交流基金 HPより)。このうち、94%を中等教育の学習者が占める。これは、インドネシアでは高校での日本語教育がカリキュラムによって教科として定められているからである。カリキュラムの改定は10年ごとに行われてきたが、カリキュラム改訂の内容によって、学習者数は大きく増減する。1984年の改定により、中等教育の学習者数が増えた。そこで、高校生向けの教科書が国際交流基金の協力のもと作成された(本名ほか 2000)。1994年の改定ではコミュニカティブアプローチが採用され、現場に混乱が生じたため、国際交流基金の協力のもと、教材開発、研修会、講師ネットワークの構築が図られた(本名ほか 2000)。2004年の改定に際しても、カリキュラムにそった教材開発が行われている。2013年の改定では第二外国語の選択が校長の裁量に委ねられた。そこで、校長に働きかけることが必要になった(アクラス日本語教育研究所 HPより)。

 

表3 カリキュラム改訂と日本語学習者数の変遷

  1984年 1994年 2004年 2013年
学習者数 27805人 54016人(1998年) 272719人(2006年)  745125人(2015年)
前回調査との変化 約26000人増▲ 約20000人減▼ 約20万人増▲ 約12万人減▼
カリキュラム内容 高校で日本語が選択必修科目になる 高校における第二外国語の授業が1年間のみになる 高校において第二外国語が選択必修科目になる 高校によっては第二外国語をやめ受験に有利な科目に切り替える

 表3は発表者(大政)が国際交流基金のウェブサイト、吹原(2007)、古川他(2015)をもとに作成

 

8.EPAから見る今後の動向

 2008年にEPAが締結され、日尼間の人、物、サービスの移動がより自由になった。日尼間では、インドネシア人介護福祉士、看護師の受け入れが協議され、2008年より現在まで1792人を受け入れている(厚生労働省 HPより)。これまでは日本に対する理解促進のために、日本語普及を行ってきた。しかし、百瀬(1998)でも述べられているように、「支援、援助」という視点ではなく、「双方向的な国際交流」の視点が必要である。

 

9.まとめ

 インドネシアにおける日本語教育史を全体的に概観するため、「日本軍政期」(1942-1945)を見過ごすことはできない。この時期では日本軍は「日本語を通じて日本精神、日本文化を会得させ、浸透すること」と「インドネシアを効率よく統治するため」の二つの目的を持って強制的かつ意図的に日本語教育を実行した。また教育政策・言語政策には、「日本語の普及」を最重点項目の一つとして行った。1994年まで児童から大学生まで約264万5千人が日本語を学習させられた。そして戦後時代には、日本側は資金的,技術的にインドネシアを援助し日本語教育の専門家がインドネシアへ派遣されることによってインドネシアにおける日本語教育の普及は、日本軍による支配的なものから技術協力の一環として変容してきたと考えられる。

 

 我々日本語教師は時代や社会の流れをよく観察し、どんな日本語普及活動が必要かを主体的に考えていく必要がある。また、場当たり的なものではなく、先を見据えた支援も必要になってくるだろう。インドネシアでこれほどまで日本語が普及したのは、日本政府、インドネシア政府、支援団体の連携が取れているためである。普及には、お互いに働きかけ、関係を積極的に構築する姿勢が必要だと思われる。今後は普及という視点とともに、協力や相互理解のための日本語教育という視点も大切かもしれない。

 

 

 

参考文献

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一般社団法人アクラス日本語教育研究所

〈http://www.acras.jp/〉(2017年7月17日アクセス)

厚生労働省 インドネシア人看護師・介護福祉士候補者の受入れについて

〈http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000025091.html〉(2017年7月17日アクセス)

国際交流基金 国別の日本語教育情報 

〈http://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/index.html〉(2017年7月16日アクセス)

ブリタニカ国際大百科事典

〈https://kotobank.jp/word/コロンボ計画-67079〉(2017年7月17日アクセス)

 

 

 

 

社会的背景 日本語の普及活動及び日本語・日本語教育への影響
17世紀 朱印船貿易及び、オランダの「日本人300人輸送計画」により日本人の渡航、移住  
1903 イギリス商社バタビア支店勤務の日本人によって日本語講習会 現地の人々を対象に日本から招聘された講師が教授
1934 クサトリアン学院日本語教育導入 日本語教師が招聘され、3年間にわたって日本語教育、教科書作成
1940

・南進政策

・インド洋の戦い

・大東亜共栄圏建設

 
1941

太平洋戦争に突入

日本語の普及が「南方」へ拡大
1942

インドネシアを含む南方諸地域を占領

・「南方諸地域に於ける日本語教育に関する件」

教科書の編纂、教員養成が実行されたことによって「日本語普及」が展開された。

1943  

・「日本語普及教育要綱」の公布

学校教育への日本語科目の導入(必修科目)、会社、軍隊等での日本語使用、インドネシア人日本語教師の養成、日本語学力検定試験など。

1944  

・片仮名新聞「カナジャワシンブン」の発行

・児童から大学生まで約264万5千人が日本語を学習させられた。

1945 第二次世界大戦 日本の敗戦、中華民国南京国民政府崩壊、アメリカ、タイ、イギリスへの宣戦布告を無効

1942~1945年まで日本軍政の一環として日本語教育が行われる。

1951 連合国と日本国との平和条約が締結され、日本占領の終了  
1958 日イ平和条約締結により、日本とインドネシアは公的外交関係を開始し、戦後賠償協定が結ばれた。

・多くの留学生や研修生が日本へ来日した。

・日本文化学院にて日本語教育開始(機関における日本語教育の開始)

1961 コロンボ計画

・日本語教育の専門家がインドネシアへ派遣され、更に日本語教育の専門性が高まっていた。

日本軍による支配的なものから技術協力の一環として変容

1962 高校での日本語教育開始(選択科目)

パジャジャラン大学などに日本、日本語関係の学科設立(主要都市に広まる)⇒高校の日本語教師養成開始

1960~ 行動経済成長⇒日本企業進出

スラバヤ教育大学日本語学科設立をはじめ、地方にも日本語教育拡大

1980~

・円高が進み、日本企業の進出、経済関係が緊密になる

・日本のテレビドラマ、アニメが放映される

日本語の需要が急増し、英語に次ぐ第二外国語になる

1984

高校外国語教育指導要領が改訂

日本語学習者急増

1986

ダルマ・プルサダ大学設立

日尼友好に向けて、日本語学科設置

1988

教師研修会開始

体系的な研修会が開かれ、教師同士のネットワークづくりが進む

1991

国際交流基金がジャカルタに日本文化センターを開設

・中等教育レベルでの日本語教育に対して支援、協力を強化

・国際交流基金が協力し、高校用の教科書が出版。国定教科書第1号に認定

1994

カリキュラム改訂⇒高校における第二外国語の授業が1年間のみになる

中等教育における学習者大幅に減る

1995

インドネシア政府の長期高等教育開発計画(2005年まで)

開発計画に基づき、各地に日本語関連の学士コース、ディプロマコースが開設される

2006

中等教育カリキュラム改訂⇒高校において第二外国語が選択必修科目になる

高校における学習者が大幅に増える⇒日本語教育の一般化

2008

日本・インドネシア経済連携協定

インドネシア人介護福祉士、看護師受け入れ

2013

新カリキュラム発表⇒高校によっては第二外国語をやめ受験に有利な科目に切り替える

日本語教育を行う高校、生徒数が大幅に減る

 

©2014 Yoshimi OGAWA