日露戦争後のロシアにおける日本語教育
サンクトペテルブルクを中心に
ボルトネーフスカヤ・ユーリャ
はじめに
ロシアにおける日本語教育は18世紀初期に遡る。200年近くたつ20世紀初頭には日露戦争が起こり、ロシアは隣国から戦争相手となる。日露戦争の流れと結果を検討した上で、日本語教育にはどのような変化があり、どのよう成果があったかを考察する。
1.日露戦争の流れと結果
表1 当時の世界の様子
ロシア |
南下政策を実施、凍らない港を手に入れたい。 義和団事件後も満州に軍隊をとどめる。 |
日本 |
満州と隣り合う韓国を確保したい。 |
イギリス |
清での利権確保のために、日本の軍事力を利用したい。
日本はイギリスと同盟(日英条約はロシアでは反ロシア条約と呼ばれる )を組みロシアと戦争へ |
中学3年生「日露戦争」【要点資料】 (pref.gunma.jp)
表2 日露戦争の流れと結果
日露戦争 |
ロシア側 |
日本側 |
原因 |
1.ニコライ2世が皇帝になった19世紀末ー20世紀初頭のロシアでは、社会及び経済問題が深刻化し、国内の事情をごまかすために「勝利が確実で規模が小さい戦争(ロシア語からの直訳)」が必要だった。
2.領域を拡大することで、国際的地位の向上を図ろうとしていた。 |
1.ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、大日本帝国の安全保障を堅持することを主目的とした。
2.イギリスがロシアの影響力の増大を警戒し、日本の力を利用しようとした。 |
結果 |
日露戦争は日本の勝利で終わり、ロシアは、 |
|
戦争後の様子 |
戦争での敗北が革命の引き金になった。 |
戦争の犠牲の大きさに比べると、賠償金は得られず、日本の獲得した領土や権益も期待したほどではなかったため、日本国民の政府への不満が募った |
2.戦争後の日露関係
戦争後間もなく、日露関係が一層深まり、様々な分野での交流が始まる。日露間の貿易が再開し、経済、政治、文化などあらゆる面において総合依存を深めていく。絵の技術にジャポニズムの影響が見られ、日本の柔道がロシア全国で普及する。また、ロシアにおける日本語研究も一歩進化し、本格的に行われるようになる。日本では、トルストイやドストエフスキーなど、ロシア人文学者の知名度が上がる。
論題
日露交流が戦争後間もなく復活したのはなぜだと思いますか?
考えられる理由:
・日露戦争後、ロシアは、西アジア・バルカン方面に注意を向けたため、利害の衝突がなくなった日本とはむしろ強調するようになった。
・両国は戦争で国内情勢が悪化し、経済的にも社会的にもす安定だったため、近いうちに新たな戦争が始まらない自信があった。
3.日露戦争後の日本語教育
日露戦争後の日本語教育は、帝政ロシア時代の日本語教育(1917年まで)と革命後の、ソ連時代の日本語教育に分けることができる。
1.帝政ロシア時代における日本語教育
2.ソ連時代における日本語教育(さらに5つの段階に分けられている(ポドゥパーロヴァ、1994):
1.1917-1930 ― 科学体制を築く新しい方法探し
2.1930-1941 ― ソ連科学アカデミーの活動改定
3.1941-1945 ― 第二次世界大戦
4.1945-1955 ― 戦後の日本語教育復活
5.1956-1975 ― 現代ソ連における日本語教育)
3.1 帝政ロシア時代における日本語教育
日露戦争後からロシア革命にかけての間に日本語教育の中心になったのは、サンクトペテルブルクだった(1914から1924までペトログラード、1924から1991までレニングラードと呼ばれていた)。当時のサンクトペテルブルグ国立大学で教壇に立っていたロシア人教師の活動及び成果は以下の通りである。
表3 20世紀のサンクトペテルブルグ国立大学日本語学科の教壇に立ったロシア人教師
1.コスティーリョブ |
1848―1918 |
1888年にロシア人が書いた日本史についての初本を執筆。 |
2.ラドゥーリ・ザトゥロブスキ― |
1903-1987 |
日本語・中国語学者。 |
3.ポズドネーエブ・ドミトリ― |
1865-1937 |
ロシアで出版された初の日露漢字辞典を作成。 |
4.キューネル |
1877―1955 |
東洋学者。 |
5.コンラッド |
1891―1970 |
ソ連における日本語教育の金字塔を打ち立てた人。 |
6.ジューコブ |
1907-1980 |
日本語・日本史学者。 |
7.ゴルドベルグ |
1908-1982 |
日本近代史についての書物を執筆。 |
8.ヴォロビヨーフ |
1922-1995 |
レニングラード国立大学東洋学部を卒業。日本、韓国、モンゴルなどの歴史について研究していた。 |
((spbu.ru)サンクトペテルブルグ国立大学のホームページを基に著者作成)
おわりに:感想
『蚕と戦争と日本語』に出会う前に、戦争がその国における外国語教育に影響を与えうるとは思ってもいなかった。与えるとしたら、諜報員の育成くらいだと思っていた。しかし、『蚕と戦争と日本語』に書いてあったように、その国が敵である場合、その国の文化や国民性などを把握することにより、その国の作戦などをより理解できること、その国が味方である場合には、上記を理解することにより、意思疎通が良くなり、交流が一層深まること、また敵でも見方でもない場合には、その国はなぜ勝てたかやどのような技術を持っているかなどの質問への答えを見出せること、などが理由で外国語教育が発展していくことが分かった。
参考文献
1.柳富子 (1979年) 『ソビエトの日本学』 比較語学
2.中村泰朗・V.S.グリーヴニン(1976年)「<外国大学における日本研究の実態③>ソビエトにおける日本語・日本文学の研究」、『大学時報』、vol.25、130号
3.История Японии - Восточный факультет СПбГУ (spbu.ru)(2022年6月4日閲覧)
4.日露戦後の国際関係 (odn.ne.jp) (2022年6月3日閲覧)
5.Причины русско-японской войны 1904-1905 кратко, поводы (obrazovaka.ru)(2022年6月3日閲覧)
6. https://spb.hse.ru/ixtati/news/486657510.html (2022年6月3日閲覧)
7.中学3年生「日露戦争」【要点資料】 (pref.gunma.jp) (2022年6月3日閲覧)