『天草版平家物語』と『エソポのハブラス』に見られるポルトガル語
下城瑠依
1.はじめに
1590年に天正遣欧使節が帰還するとともに活版印刷機が日本にもたらされた。イエズス会の宣教師たちは、この印刷機を用いて数多くの「キリシタン版」と呼ばれる書物を生み出した。キリシタン版には日本人信徒用に作られたものと宣教師用に作られたものがあり、今回取り上げる『天草版平家物語』(1592)と『エソポのハブラス』(1593)はどちらも宣教師が日本語を勉強するために用いられた。
『天草版平家物語』と『エソポのハブラス』は『金句集』(1593)とともに三つの作品の合綴本として出版された。ワトソン(2006)によると、『天草版平家物語』と『エソポのハブラス』はそれぞれに編者による序文が存在し、また三冊合綴本の全体の序文も別に添えられている。今回は、これら二作品に注目しその概要と特徴を述べる。また、『天草版平家物語』の序文と『エソポのハブラス』の序文と本文にはポルトガル語のまま書かれた単語があり、なぜそれらがポルトガル語のまま記されているのかについても考察を加える。
2.『天草版平家物語』
『天草版平家物語』は序文で「日本のことばとイストリヤを習ひ知らんと欲する人のために世話に和らげたる平家の物語」と記されており、同書が日本語と日本の歴史を学ぶ外国人読者のために作られたものだとわかる。そのため、イエズス会士によって創り上げられたローマ字で記されている。また、ワトソン(2006)によれば、編者である日本人修道士ハビヤン(1565-1621)は日本語を読む西洋人にとって理解し難い事柄への意識を明確に持っていた。そのため西洋人への配慮が表記の中に現れている。例えば、同一人物が複数の名によって呼称されている場合はできる限り一つに絞ったり、序文の最後に凡例のようなものを加えてその言葉が人名、官位、国名、地名を表していることを示したりしている(表1)。加えて、固有名詞の頭文字を大文字にする他に、句読点や段落の使用、ピリオドやコンマなども用いられており、テキストをより読みやすいものにしている。また、同書には原点にはない話し手(琵琶法師喜一検校)と聞き役(右馬之允)が加えられ、口語体で平家物語の大略が描かれている。玉懸(2008)によると、ハビヤンが呼称を一つにまとめ、口語体を採用した理由は、呼称を一定することと口語の問答体によって記すことを命令されたことによる。
3.『エソポのハブラス』
ワトソン(2006)によると、『エソポのハブラス』はヨーロッパで人気を博したイソップの生涯と寓話集を日本語に翻訳したものである。また、序文から同書が日本語を学ぼうとする人のための書であると同時に、内容においても教戒的な意図を明確に持つとも指摘している。そのため、イソップの下品で露骨なエピソードは除外され、日本に馴染みがある内容に置き換えられた話も存在する。また、『天草版平家物語』と同様にイエズス会が創り上げたローマ字と口語体で記されている。米井(2000)によると、『エソポのハブラス』の表記には音便が反映されており、促音便、イ音便、ウ音便が頻繁に登場する。音便とは「活用の問題とは別に発音の要請で生じる現象だから、口語に特徴的なもの」(米井2000)であり、この特徴は『天草版平家物語』にも共通する。
4.『天草版平家物語』と『エソポのハブラス』に見られるポルトガル語
『天草版平家物語』はその序文に、『エソポのハブラス』はその序文と本文にいくつかのポルトガル語が見られる。ポルトガル語で記された単語を抽出し(人名や地名は除く)、当時のポルトガル語の意味、日本語の意味を『拉葡日対訳辞典』、『パリ本:日葡辞書』で調べ、なぜその単語が日本語に翻訳されなかったのかを探った。
調査の結果を表2に示した。ポルトガル語のまま記されて単語は15語であった。その中にはHistoriaやDeusのように日本語に相当するものがないために翻訳されていない単語や、FeuereiroやFINISのような日本語に相当する単語があるが、あえてポルトガル語で記されている単語があることが分かった。このあえてポルトガル語で記されている単語は、編者が読み手である宣教師や教会を意識した結果であると考えられる。実際に、ワトソン(2006)によると、これらの書物が印刷されるには教会の許可が必要であった。「エソポのハブラス」や「イエズス会」を意味する言葉もポルトガル語のまま記されており、日本語がよくわからないであろう読み手にこの書物が宣教師に馴染みのある物語であることや、教会の検閲を通ったものであることをアピールする目的もあったのではないだろうか。
5.感想
HistoriaがなぜHistoriaのままなのかという疑問から今回の発表に取り組んだ。特に『天草版平家物語』の成立過程を辿っていく中で、ハビヤンが嫌々ながらも真摯に取り組み、教会にも平家物語にも配慮しながら行っていたことがわかった。加えて、異なる言語が接触した際に、どのように翻訳するのかや新しい概念をどのように説明するのかなどを垣間見ることができた。新しい言語を学習する際に、単語の大まかな意味が同じでも細かなニュアンスやその単語が表す範囲が異なる場合がある。そのことに気づくには多くのインプットに触れる必要があると思うので、ハビヤンがあえてポルトガル語のまま残したということは、優れた編者であったのと同時に学習者であったことを示すのではないだろうか。また、今回参照した辞書に載っておらず、意味を確認することができなかった単語についてはこれからの課題としたい。
参考資料
石塚晴通(1976)『日葡辞書 : パリ本 = Vocabvlario da lingoa de Iapam』勉誠社
国立国語研究所「天草版平家物語」『日本語史研究用テキストデータ集』2019年公開
https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/amhk/ 2022年6月12日最終閲覧
国立国語研究所「天草版伊曽保物語」『日本語史研究用テキストデータ集』2019年公開
https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/amis/ 2022年6月12日最終閲覧
Dictionarium Latino Lusitanicum, Ac Iaponicum. , 1595.(『拉葡日対訳辞典』)
https://hdl.handle.net/2027/nnc1.cu05758114 2022年6月12日最終閲覧
参考文献
米井力也(2000)「キリシタンの日本語研究と翻訳の試み」『日本語学』九月臨時増刊号第19巻第11号pp.176-186
玉懸洋子(2008)「天草版平家物語 序説:ハビアン抄の方法」『仏教大學大學院紀要』第36号pp.31-46
マイケル・ワトソン(2006)「キリシタン版と書―天草版『平家物語』と『エソポのハブラス』」『國文學―解釈と教材の研究―』第51巻11号pp.48-58
【資料】
表1 凡例とその例
凡例とその例 |
fFito 例 fQiyomori, fQuanmu, fXuxŏ, fGuenzanmi, fMirocu 「ひと」 清盛、桓武、主上、源三位、弥勒 |
qQuan例qVdaixo, qQenpijxi, qQuanbacudono 「官」 右大将、検非違使、関白殿 |
cCuni 例cNippon, cTengicu, cTagima, cMusaxino 「国」 日本、天笠、但馬、武蔵野 |
tTocoro例tMiyaco, tRocuhara, tDairi, tBiŏdȏin, tFiye 「ところ」みやこ、六波羅、内裏、平等院、比叡 |
ワトソン(2006)より作成
表2 ポルトガル語で書かれた単語の一覧と当時のポルトガル語・日本語訳
単語と現代日本語訳 |
『拉葡日対訳辞典』 |
『パリ本:日葡辞書』 |
Historia 歴史 |
Yurai, coji, taiseqi, denci, yeogui |
Taiseqi以外は記載があるが、 起源や話の意味 |
Collegio コレジオ |
記載はあるが印刷が不明瞭なため解読不可 |
記載なし |
Superiores 長老 |
記載なし |
(chôrô)僧侶の中で一番尊厳がある者 |
Europa ヨーロッパ |
記載なし |
記載なし |
Gẽtio 異端徒 |
記載なし |
記載なし |
Ecclesia 教会およびキリスト教 |
記載なし |
記載なし |
Deus 神 |
Tentõ, tenxu, tenſon, tenrei |
Tenrei以外は記載あり。Tentõ, tenſon にDeusが見られるが一致するものとしてはみなしていない |
Gloria 栄光 |
Gloriôiusの葡訳に登場。 以下Gloriôiusの日訳Meiyo, fomare tacaqi monoなど |
Louuor |
Feuereiro 2月 |
記載なし |
(如月)Segûda lûa o mês de japão |
Sanɛta Obedientia 聖なる服従(?) |
(Obendientia)xitagai |
Obediencia |
Euangelho 福音 |
記載なし 以下Euangelの訳 Ieſu chiristo no Euangelho no cotouo yõ |
記載なし |
Dezembro 12月 |
記載なし |
(師走)Duodecima lua, ou mes |
Natura 本質 |
Monono xõ |
natureza das cousas |
Pan パン |
記載なし |
記載なし |
FINIS おわり |
記載なし |
記載なし |