ヤジローの足跡と彼のポルトガル語学習、一行の日本語学習
山本栄作
1.はじめに
キリスト教は、1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられた。当時インドにいたザビエルは日本を布教の地とすることとしたが、この決定にヤジローは少なからぬ影響を与えた。
ヤジローの足跡と、ヤジローのポルトガル語学習、ヤジロー一行の語学学習についてまとめる。
2.ヤジローの足跡(表1 参照)
日本にヤジローの記録は残っておらず、彼の記録は主に当時のイエズス会士が各地の記録を本国やインドの拠点ゴアなどに送った「書簡」から読み取られている。
1)ヤジローは薩摩出身だが、殺人を犯した後、ポルトガル船に乗り込み、最 終的にインドのゴアにある聖パブロ教会に行った。キリスト教に心を惹かれ、洗礼した。
2)ザビエルはポルトガル商人から、布教場所として日本の可能性の高さを聞いており、その中でヤジローの聡明さを見て、日本での布教意志を強めた。
3)聖パブロ協会でのヤジローは、ポルトガル語やキリスト教教理を学び、学習意欲・成果が高く評価された。
4)ザビエル一行は1549年に鹿児島に到着し布教を始めた。当初、薩摩領主に受け入れられたが、布教の中で仏教を批判したために仏教界から反発され、1550年に禁教とされた。ザビエルは当初から、天皇からトップダウン式で布教を行う計画を持っており、このタイミングでヤジローを残し京都へ向かった。
5)ザビエルと別れた後、ヤジローは僧侶などから厳しい扱いを受け、その後、倭寇の一行に加わって中国にわたり、約5ケ月後、同地で中国人に殺害されたとされている。
3.ヤジローのポルトガル語学習、ヤジロー一行の日本語学習
1)ヤジローのポルトガル語学習
①足跡を追って
ア)離日前(1546秋、1547/1以前)
彼は商人もしくは下級武士とされており、離日の際、既にポルトガル商人ヴァスと既知で、乗船の紹介状をもらっている。この段階で、それまでのポルトガル人とのやり取りの中で、簡単なポルトガル語を習得していたと考えられる。
イ)離日後~ゴア到着(~1547/12)
船上でポルトガル人との生活で上達したと考えられる。
マラッカに到着しザビエルに面会した際に、「その頃にはもう、わたし(ヤジロー)はポルトガル語が多少分かり、いくつかの言葉を話していた」(岸(2001)p29)。
ウ)聖パブロ教会(1548/3~1549/4)
聖パブロ教会は、海外布教のためにマラッカ、中国等の若者を集めていた。
教会に入る以前は主に生活言語を学び、教会ではキリスト教義を学ぶなかで、読み書き等の学習言語能力を伸ばしたと考えられる。
・「彼は同所にいた6ケ月間、ポルトガル語の読み書きを学習することに専念し、その点で学院中、あれに勝る者は殆どいない程まで、著しく上達し」、「公教要理の事柄について、ザビエルやトーレスと意思が通じるほどにポルトガル語を会得した」、「聞いたことをまず日本文字で書き留めておき、あとでそれをやすやすと暗唱する。そしてわずか数か月で、ポルトガル語の綴りや文章表記を習得した。ザビエルがマタイの福音書を説くのを2度聞いただけで、すべて記憶にとどめてしまった」(塩田(2018)P174)。
②ヤジローのポルトガル語の限界
ア)キリスト教のデニス(神)を真言宗の「大日」、聖母マリアを「観音」と訳したり(後に誤訳とされた)、ザビエルと仏教僧侶忍室(にんしつ)との会話の通訳で、忍室の答えのポルトガル語訳をザビエルが理解できないことが多かったなど、キリスト教義と仏教との橋渡しは、彼には荷が重かった。
イ)ザビエルも他地域での経験から、現地人通訳の限界を認識しており、来日前からフェルナンデスへの通訳交代を考えていた(「キリスト教教理の現地語翻訳は、『まず現地人通訳による翻訳、次に現地語を習得したヨーロッパ人宣教師による点検、改定という二段構えのプロセス』が不可欠」(塩田(2018)P176))で、ヤジローもこれを理解していたものと思われる。
2)ヤジロー一行の日本語学習
① 日本までの船上
日本人とポルトガル人の口移しの直接法や、福音書の和訳作業が行われた。
通訳候補として同行したイエズス会士フェルナンデスは「ヤジローとその伴の人から、朝の祈りの後の少時間と、夕の祈りのあとほとんど毎晩のように・・・キリスト教義をどのように日本語で話したらよいかと深夜にいたるまで話し合っていました」(塩田(2018)P183)。
② 鹿児島到着以降
ア)上記①の学習は鹿児島到着後も続き、布教テキストの翻訳作業に発展していった。
イ)ヤジローによって日本語をローマ字化する初めての試みが行われた。ザビエルはこのローマ字によりたどたどしい日本語を使って伝道を行った(塩田(2018)P183)。
ウ)フェルナンデスは非凡な語学の才能を持っていた。彼はザビエル離日後も日本に残り布教を続け、2年足らずのうちに高度な質疑応答ができるようになった。彼に教義について質問をする日本人が多く、彼の家は朝から晩まで人で満ちていた。「この地の人々と日常的に交際してこのことばを用い、人々が様々な事柄について話すときの種々の表現・言葉遣いに、おこたりなく注意を払い、自然にこれを習得する」方法を重ねた(塩田(2018)P278)。彼は、6~7ケ月をかけて、1561年、動詞活用や過去、統語論などの規則を記した文法書と、アルファベット順によるポルトガル語と日本語の2つの語彙集を作成した。1564年に焼失したが、恐らく一部は書き写され、修道士の日本語学習に役立てられたと考えられる(フェルナンデスは1567年、平戸で40歳で病没)。
エ)ザビエルも日本語を学んだが(「言葉を習うために幼児のようにならなければなりません」(河野(1994)
P118)、自分のことを、「まるで木偶(でく)の坊のようです」と書いており(梅北(1993)P98))、あまり流暢にはなれなかったことが伺われる。
4.感想
1)行方不明になって3年後の1549年、突然ヨーロッパの宣教師をつれて、鹿児 島に戻ったヤジローの姿は、おそらく西欧のイエズス会の装束をまとっていて、鹿児島の人にとっては驚愕そのもので、まばゆかったに違いない。
2)日本人とのやりとりに対応したのはフェルナンデスで、日本布教には彼の貢献度が非常に高かった。彼の文 法書と語彙集は1561年に書かれ、ロドリゲスの『日本語大文典』(1604~1608)より40年以上早い。
3)ザビエルは、インド他地域の経験から、ヤジローの通訳者としての限界を初めから認識していた。深い物事 の通訳はそれに応じた理解が必要だが、宗教の場合はなおさらだろうと思った。
4)ザビエルが鹿児島を離れた際、ヤジローが鹿児島に残ったのは「家族もあり、家業もあったので残ったので あろう(梅北(1993)P109))」とされているが、僧侶などから厳しい扱いをされたことが、背教、亡くなるきっかけとなった。聖パブロ教会での優等生ぶりや帰国時の華々しさと比べて、あまりにも悲しい最期だった。ザビエルは、自身が鹿児島を去った後のヤジローの難しい状況を予想できたのではないだろうか。「我らの主が彼を日本改宗の道具とされたことは事実である」(岸野(2015)P248)との資料もある。ヤジローが鹿児島に残された経緯・理由は謎に思った。
参考文献
梅北道夫(1993)『ザビエルを連れてきた男』 株式会社 新潮社
岸野久(2001)『ザビエルの同伴者アンジロー 戦国時代の国際人』 株式会社 吉川弘文館
岸野久(2015)『ザビエルと東アジア パイオニアとしての任務と軌跡』 株式会社 吉川弘文館
河野純徳(1994)『聖フランシスコ・ザビエル全書簡3』 株式会社 平凡社
塩田勉(2018)『語学教師の物語 日本言語教育小史』株式会社書肆アルス
松田毅、川崎桃太一(2015)『完訳フロイス日本史⑥ ザビエルの来日と初期の布教活動』中央公論社
【参考資料 表1:ヤジローの足跡(参考文献より作成)】
時期 |
事柄 |
1511~12 |
鹿児島生まれ |
1546秋、1547/1 |
人を殺害し、既知のポルトガル商人ヴァスに海外行きを勧められ、船長エルナンド宛の紹介状を手にした。誤って別のポルトガル商人アルバレスの船に乗ってしまったが、当初の意図通りマラッカに渡った。航海中、アルバレスから、キリスト教、ザビエルの話を聞き、洗礼を受けたい気持ちになった。 図1 当時の航路
|
1547 |
マラッカの司祭から、ヤジローがいずれ日本へ帰ること、異教徒である妻と暮らすことになることを理由に、洗礼を拒否された。 失意の中、中国経由で日本へ帰る途中、嵐に会い中国へ戻ったところヴァスと再会し、ヴァスに勧められ、再度マラッカ行きを決意した。 |
1547/12 |
マラッカでザビエルに面会。ザビエルはヤジローに接して、日本での布教意思を強めた。 ヤジローはザビエルから、日本での布教可能性について問われ、下記見解を示した。 ・・・すぐには無理だが、日本人は理性によって導かれるので、日本人の質問に対する答えの内容、布教者の振る舞いが良ければ、身分ある人や思慮ある人が信者になるだろう。 |
ザビエルから、ゴアへ行き、聖パブロ教会で学ぶことを命じられ、下記課題を与えられた。 1)ポルトガル語の学習 2)キリスト教教理の学習 3)教理書の翻訳 ① キリスト教理のすべて ② 信仰箇条の説明 |
|
1548/3 |
ゴアで、聖パブロ教会へ入会 |
1548/5 |
洗礼を受け、パウロ・デ・サンタ・フェの洗礼名を授かった。 |
|
教理書の翻訳 「キリスト教理のすべて」に相当する「ドリチナ・プレぺ」(29箇条。信者が暗唱すべきお祈りや十戒など)を訳した(ヤジロー翻訳版は現存しない)。 |
日本情報の提供 ザビエルの日本布教のために、事前情報を提供した。 1)日本が天皇、将軍による中央集権体制であること →ザビエルは、上からの改宗戦略を構想し、来日前から京都へ行く計画を持った。 2)仏教が中国経由で伝わったこと、中国との貿易状況→日本と中国との関係 3)日本人僧侶の悪習(男色)→道徳面からの仏教攻撃 |
|
1549/4 |
ゴア出発(マラッカ経由) 計8名 司祭・・・ザビエル 神父・・・トーレス(聖パブロ教会でヤジローの教育係) 修道士・・フェルナンデス(後の通訳候補) ヤジロー(本人。洗礼名:パウロ・デ・サンタフェ) ジョアネ(日本人)・・アンジローの召使。日本から同伴。ヤジローの指示で同時に洗礼を受けた。 アントニオ(日本人)・・ザビエルに譲渡された奴隷。ヤジローの指示で同時に洗礼を受けた。 マヌエル(中国人)・・従僕 アマドール(インド人)・・従僕 |
1549/8 |
鹿児島到着 現地は大歓迎。薩摩領主 島津貴久は鉄砲やポルトガルとの貿易に関心があった。 当初、貴久は、キリスト教を仏教の一派としてとらえ、家臣にキリスト教信仰許可を与えた。 |
1549~1550 |
ザビエルは仏教理解のため僧侶忍室(にんしつ)と交流した。ヤジローは通訳。 |
ヤジローは「信条箇条の説明」(天地創造やキリストの生涯など)を翻訳し、「鹿児島教理説明書」を作成した(アルファベット表記によるローマ字本)。 |
|
伝道の方法 1日2回、ザビエルが「鹿児島教理説明書」の一部を読み、ヤジローが聴衆に説明した。 仏教と日本人の悪習を批判(偶像崇拝、男色、嬰児殺し)した。 →1年余り鹿児島に滞在し、100名に洗礼した。 |
|
島津貴久 キリスト教禁教 仏教界からキリスト教への反発(教えが仏教と相容れず、改宗者に死罪を求めた)があった。鹿児島にポルトガル商船来航がなく、貴久の目論見が外れていたこともあった。・・・補足1 |
|
1550 秋~冬 |
ザビエル一行は鹿児島を離れ、京都へ向かった。・・・補足2 ヤジローは鹿児島に残り、通訳はヤジローからフェルナンデスに交代した。 |
1551 |
ザビエルが去った約5ケ月後、ヤジローは、島津氏の禁教強化のなかで、仏教僧侶に嫌がらせを受け、ザビエルから託された教会を離脱して(キリスト教を)背教した。その後、倭寇の一員に加わって中国に渡り、同地で中国人によって殺害された。 |
補足1・・・島津貴久は、自身がキリスト教を禁教とした後、南蛮船が鹿児島 でなく九州の別地域(平戸、長崎)に出入りすることを知り、南蛮貿易に乗り遅れてしまうことを懸念し、1561年イエズス会に謝罪の書簡を送った。
補足2・・・ザビエル一行は天皇に謁見するために京都まで行ったが、当時、戦争(応仁の乱)の只中で実現しなかった。山口の大内義隆、大分の北条宗麟などを洗礼。ザビエルは1551/11に離日。