ポーランドの日本語教育・日本研究
―ポーランドに渡り日本語教師をした画家、歌川若菜―
土屋 仁美
1,はじめに
19世紀半ばから末にかけてパリを中心としたジャポニズム隆盛期には、欧州に渡り活躍した日本人らがいた(画商、林忠正やイタリアの日本語教師たち、政府使節団など)。次第に欧州各地で本格的な日本研究が興るが、その頃、1908年に渡欧し揮毫活動をしながら8年ほど外遊した日本画家がいた。彼女はポーランドで日本語教師も経験したという。ポーランドのワルシャワ大学において公に日本語教育が始まる1919年以前、当地での日本語教育活動の存在として「歌川若菜」についてご紹介する。
2,歌川若菜
1889年または1891年、1月東京生まれ、名はわか子(若菜子とも)の日本画家。父は浮世絵師、日本画家の歌川国峰(1861-1943)、祖父に二代目国久(1832-1891, 歌川派の祖、豊国の門人)がいる。14歳で女子美術学校に入学し、日本画科を卒業した。
3,外遊歴
1908年3月2日、英国博覧会と欧州画界視察のために渡英した。その翌年、日英博覧会(1910年5月14日-10月29日)に際して農商務省より英国に派遣され、開期中会場にて絵を書いた。この時、元駐日英国大使アーネスト・サトウと武田兼の次男・武田久吉と知り合い、求婚されたという逸話もある。宮武(1911):小山(1998)。
博覧会後も帰国せず1年半ほど英国に滞在し、作家・東洋美術蒐集家のアーサー・モリソン (1863-1945)、ジャーナリストのウィリアム・T・ステッド(1849-1912)らの知遇を得るなど、知識人や芸術関係者と交流し、新聞や雑誌にも取り上げられた。またこの時期にスコットランドやアイルランドにも足を伸ばす。
その後パリで揮毫活動を続け、展覧会、琴の演奏、ルーブル美術館訪問などをした。当時の名士とも交流し、パリにいた安達峰一郎代理大使(1869-1934, パリ講和会議での日本代表代理)夫人と面会、また坪内士行(1887-1986, 坪内逍遥の養子、宝塚音楽学校の創設、演劇評論家)、浮世絵師・日本画家の池田蕉園(1986-1917)にもパリから手紙を書いている(「巴里のホテル生活」)。1912年頃、ポーランドに渡りワルシャワで個展も開いた。滞欧中はドイツ、オーストリア、イタリア、スイス諸国も訪れ、1913年5月にニューヨーク、その後サンフランシスコへと渡り、1916年1月4日、地洋丸で横浜に帰国した。
4,ポーランドでの活動
4.1日本語教授
在露大使館への日本語教師の依頼が、英国大使館を通じて英国日本協会、そして若菜の元へ来たという。「語学に非常に興味を持って既に何カ国語かの言葉に通じて」いたが「猶日本語を知りたいとの希望」の、在ポーランドのロシア人貴族、ナーバート未亡人のもとに、若菜は1年と少しほど日本語教師として滞在した。雑誌「女の世界」掲載の若菜の随筆「ポーランドの貴族の家に家庭教師として過した一年間」によると、「ハウミツア」という所は「一面蔽われた平野で邸宅は後方に山を負ひ、湖水にのぞんで建ってゐる大理石造の家」であったという。この地で「欧州を通じて第一と言はれる程完全な建築」といわれる図書館に感動したり、ジフテリアに罹って死にかけたりしながら過ごす。
日本語教授の方は、1日3時間、夫人が領有する農場を巡視する馬車の上で行われた。夫人の日本語力は、彼女の語学の才覚と、「私の教授法も悪くは無かったと見えて」(と若菜が自賛している)、1年も経つと一通りの会話ができ、新聞を読むことも出来る程度になったという。若菜がどのような教授法、教材を用いたのか、またなぜナーバート夫人が(実用性の低い)日本語を非常に高いレベルで習得したかった(必要があった)のかというのは、明らかではない。1913年頃、第一次世界大戦を目前にしたこの時期、夫人の日本語習得は、何かしらの諜報活動が目的だった可能性もあると推測する。
4.2展覧会と交流
1913年2月にワルシャワの美術ギャラリー「ザヘンタ」 (現ザヘンタ国立美術館)で展覧会を開いた。この前後、若菜はワルシャワにあるナーバート夫人邸に滞在し、ポーランド人日本美術蒐集家フェリクス・ヤシェンスキー(1861-1929)との文通では、若菜がワルシャワで多くの知人を得て多忙なこと、クラクフからウィーンを経てパリに戻ることなどが記されているが、二人の面会は叶わなかったであろうことも読み取れる。
5,揮毫活動、展覧会、各紙への掲載
5.1イギリス
・Finnemore, J. (1911). “Japan”. イギリス: A. and C. Black. ( “Containing Eight Full-page Illustrations in
Colour and Twenty Small Drawings in the Text by Miss Wakana Utagawa”)
・1911年3月18日” A TALENTED JAPANESE ARTIST NOW IN ENGLAND”. The Sphere - London, England.
・1911年4月1日 “A JAPANESE WOMAN ARTIST IN LONDON” .The Graphic - London, England.
5.2フランス
・1911年11月4日、”Excelsior”: daily illustrated journal. p.6. (パリ来訪について、パリの日刊
新聞)
・1912年9月21日、”L'Illustration”. pp. 194-195.
(明治天皇崩御に寄せて、写真資料のない葬儀の様子を若菜の挿絵で示した。
パリの週刊挿絵入り新聞)
・1912年9月24日、“Le culte des morts au japon Us et coutumes funeraires”. Le Journal. p.6.
(「日本における死者崇拝 葬儀の習慣と風習」パリの日刊新聞)
5.3 ポーランド
・ ‟Tygodnik ilustrowany“. (1913) No.5, pp.84-85.
・1913年2月1日、ワルシャワの美術ギャラリー「ザヘンタ」で作品展
5.4 アメリカ
1) New York Times
・1912年10月6日(“Drawings by a Japanese Woman Artist of Scenes Following the Dearth of the Mikado. By Miss Wakana Utagawa”)
・1913年5月12日 “JAPAN'S GIRL ARTISTBEGAN PAINTING AT 6 Wakana Utagawa, Here on aVisit, Smiles at Western Imitations of Japanese Art.”
2) 新世界新聞 [The New World], (San Francisco, CA)
・1914年7月20日「歌川若菜女史来桑 桑港大博にも出品せん」
・1916年9月13日「書は書かんで氣焔を吐く女 歌川若菜女史の昨今 大博當時贅
沢なホテル住居をして時々市内を躍り廻り居たる歌川若菜女史と云ふ畫家(中
略)」
・1916年10月27日「秋を箱根に淋しく 絵筆を抛つて(なげうって)―歌川若菜女史
の重態―」
・1917年10月30日「歌川若菜女史……{近々結婚すると噂あり 桑港に居た城谷黙
氏と}」
3)日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)
・1915年12月17日「歌川若菜女史の帰朝 (中略)昨年桑港に来り(中略) 明日出帆の地
洋丸にて一時帰国すべしと」
5.5日本
1) 朝日新聞
・1916年1月5日、「絵筆一本で世界漫遊/新帰朝の歌川若菜女史/評判の元は
新しい女」
・1916年2月13日「若菜歓迎会 新帰朝の歌川若菜女史歓迎会は十五日芝紅葉館に
開く」
・1917年10月6日「結婚の噂ある歌川若菜女史 文展出品の画を抱えて軽井沢から
帰って来た」
・1918年11月24日「休戦祝いの舞踏会 中央和装姿は歌川若菜女史(廿二日夜帝
国ホテルにて)」
2) 雑誌「婦人界」1916年1月「欧米に八年遊びし歌川若菜女史、帰朝」
3) 雑誌「美術新報」1916年2月1日「消息 歌川若菜女史 一月四日七年ぶりにて
帰朝せられた。」
イギリス、フランス、ポーランドなど欧州では、若菜について「歌川家系の子孫であること」「彼女の才能、作品の解説」を記述し、日本美術や画家としての若菜への関心が覗える。アメリカ(New York Times)では、若菜個人の来歴や価値観(日本と西洋の比較、各国の女性についての若菜の印象、婦人参政権論者であるか等)を記す一方、日本(海外邦字新聞含む)では、彼女に対し終始冷ややかでゴシップ記事のような描写(1916年9月13日、新世界新聞「書は書かんで氣焔を吐く女」、1917年10月30日「近々結婚すると噂あり」など)が見られる。
6,終わりに
ジャポニズムからジャポノロジーへの移行期、そして日露戦争後、日本への関心・警戒心が高まる中、第一次世界大戦の前夜に欧州で日本語教授をした画家、歌川若菜についてご紹介した。一時期少なからず国内外のメディアに取り上げられた若菜であるが、帰国後に国内で画家として名を成した記録は未だ見つからずその後どのような人生を過ごしたのか、更なる調査が必要である。
参考文献
歌川若菜(1912)「巴里のホテル生活」「女學世界, 復刻版」(2005). 12巻10号7月号. 柏書房. pp. 730-736.
歌川若菜(1916)「ポーランドの貴族の家に家庭教師として過した一年間」「女の世界」實業之世界社. pp. 205-211.
エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ, アンジェイ・タデウシュ・ロメル, 柴理子(訳) (2020)『【増補改訂】日本・ポーランド関係史』彩流社.
小川誉子美(2010)『欧州における戦前の日本語講座 : 実態と背景』風間書房.
小川誉子美(2020)『蚕と戦争と日本語 : 欧米の日本理解はこうして始まった』ひつじ書房.
小山騰(1994)「アーサー・モリソンと日本」英学史研究. 1995 巻 27 号 pp. 75-87.
小山騰(1995)『国際結婚第一号』講談社.
南明日香(2015)『 国境を越えた日本美術史』 藤原書店.
福島四郎(1916)「婦人界三十五年」「婦人界」大正5年1月. 不二出版. p.38.
宮島直機編(1992)『もっと知りたいポーランド』弘文堂.
宮武外骨(1911)「浮世絵師逸事(九)」「此花」第十四枝. 河出書房新社.
「美術新報」(1916) 第15巻第4号(大正5年2月1日). 画報社, p.38.
Listy (5) Utagawa Wakana z 1913 r., nr inw. MNK VIII-rkps.633/1/76. Origin of photo in laboratory Stock National Museum in Krakow.
安達峰一郎 - Wikipedia(最終参照日:2022年6月12日)
坪内士行 - Wikipedia(最終参照日:2022年6月12日)
池田蕉園 - Wikipedia(最終参照日:2022年6月12日)