第二次世界大戦下のアメリカ:読解力の養成
-陸軍情報部語学学校(MISLS)を中心に-
趙心怡
1.はじめに
第二次世界大戦中、太平洋戦線の主力とするアメリカは、日本に対して多くの研究を行った。特に日本語、あるいは日本語教育に関する研究であった。戦中、情報収集は戦争の結果に重要な影響を与える可能性がかなり高いと考えている。しかし、いくら重要な情報を入手したが、確実に翻訳できないと、役に立たないということであろう。この場面を対応するため、戦中、アメリカは陸軍情報部語学学校(Military Intelligence Service Language School, MISLS)を設立し、また、その教育内容と戦後の変遷について考察する。
2.背景
「日本語こそ我々の持つ最も有効な兵器である」と、日米戦の初期において、アメリカ陸軍に対して日本軍の高層はこう言った(阿曽村,2005)。第一次世界大戦で、アメリカはヨーロッパ各国の言語に対する研究で、他国より遅れを取り、辛酸をなめて繰り返してはならないように反省した。そのため、アメリカ陸軍情報部は語学校を成立し、日系人の語学兵の重要性もどんどん見えてきた。特に「帰米二世」[1]⁾に対することであった。しかし、当時は真珠湾攻撃の原因で、アメリカ国内の反日系の感情が高くなって、多くの日系人も専用の収容所への移動を強制された。
3.陸軍情報部語学学校について
3.1陸軍情報部語学学校とは
情報を入手するために、日本語学兵を育てたのは陸軍情報部語学学校であった。また、1941年11月に、陸軍情報部語学学校とする第四軍情報部日本語学校が設立された。当時、教員4名、生徒60名でのスタートであった。その第一期生のうち、2名の白人兵で、他の58名は日系人であった(阿曽村,2005)。
3.2日系人が必要の理由と日系人の役割
太平洋戦線の戦況によって、語学兵への請求は日々増加していて、また、アメリカ国内の要求で「六ヶ月間で、実用可能な日本語能力を養成する」ため、「完全な日本語話者」とは言えないが、多少日本語の素養がある人に学ばせる必要があると当時の担当者ジョン・w・ワッカリング中佐とカイ・ラセミッセン大尉はそう考えていた。また、アメリカの海軍は独自に白人将校たちの日本語トレーニングを行ったが、日系人の能力に適わないということであった。
そして役割について、当時、日系人は捕虜の尋問、日本軍文書の翻訳と分析、日本の地図の翻訳、日本軍の無線の傍受など、作戦に欠くことのできない役割を担った(切石博子,2010)。
3.4教育内容
内容は「翻訳」と「通訳」を中心に展開していた。また、阿曽村(2005)は「当時の「読み」とは、いわゆる長文読解ではなく、スキャミング[2]⁾がより重視されていたことは想像できる」と述べた。
4.戦後の変遷
戦後、軍情報部語学学校(Military Intelligence Service Language School, MISLS)はアメリカ国防総省語学学校(Defense Language Institute, DLI)に変遷し、学校内の主要な組織は国防省語学学校外国語センター(Defense Language Institute Foreign Language Center, DLIFLC)と国防省語学学校英語センター(Defense Language Institute English Language Center, DLIELC)である。(表1を参照)
表1
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国防省語学学校外国語センター |
国防省語学学校英語センター |
前身 |
・陸軍情報部語学学校 |
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設立時間 |
・1963年が設立された ・1970年国防総省語学学校外国語センターへと改称された |
・1954年5月が設立された第3746飛行前訓練部隊(語学) ・1976年、国防総省語学学校英語センターへと改称した |
教育理念(目的) |
・国家の安全保障を強化するために、文化に基づいた外国語教育、トレーニング、評価、および持続可能性を提供すること |
・国防総省の安全保障協力目標を支援するため、米軍と国際パートナーが意思疎通できるよう、世界規模の英語訓練と住民の文化的没入を提供する |
対象 |
・現役軍人・予備軍、外国軍人留学生、連邦政府や各種法執行機関に勤務する民間人 |
・連合軍のパイロット候補 |
言語種類 |
・24ヵ国語以上の外国語の授業がある(日本語、ロシア語、中国語など) |
・英語の授業 |
5.おわりに:感想
『孫子』には「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という文がある。アメリカは太平洋戦線の戦闘のため、日本の文化研究や言語教育に対して工夫をしたことは『孫子』の考えとあっているのだろうと考えっている。言語の重要性についても、より深く理解していくことになると思っている。また、日系の二世人は第二次世界大戦にこんな大きな貢献をしたことに驚いた。当時の状況彼らにとって、決して友好的ではない。それでも、多くの日系の二世人は語学兵になるという道を選んだ。彼らは、どのような気持ちを抱えて、語学兵になっていったのだろうか、気になっている。
参考文献
阿曽村陽子(2005)「第二次世界大戦中のアメリカにおける陸軍情報学校」『二松学舎大学論集』48二松学舎大学文学部pp.21—31.
切石博子(2010)「太平洋戦争と占領期の日系アメリカ人陸軍情報部語学兵の役割」『昭和のくらし研究』8昭和館pp.15—29.
朝日祥之(2021)「戦中期のアメリカにおける日本語教育」『東京外国語大学国際日本学研究報告』11東京外国語大学大学院国際日本学研究院pp.15 -28
DLIFLC公式ホームページ:https://www.dliflc.edu/
DLIELC公式ホームページ:https://www.dlielc.edu/
【脚注】
[1] 「帰米」とは一時的に三、四年程度日本に滞在し、その間十三歳以上から日
本の学校で教育を受けた経験がある日系人のことである(切石博子,2010)。多くの日系の二世はアメリカの教育を受けたが、「完全な日本語話者」とは言えない。その原因で「帰米二世」は注目されていた。しかし、その代わりに、「帰米二世」の英語力は粗末なので、日英両語に堪能な日系を見つけ出すのは困難だった。(切石博子,2010)
[2] スキャミング:元も英語の速読の技術を指すことだそうさ。文章の要点をすくいとり、全体の意味を理解するための技術と言われる。