清国女子留学生と下田歌子
―実践女学校の留学生教育に焦点をあてて―


本間愛州佳


1.はじめに
 日清戦争後、清国では日本を通して西洋を学ぼうとする気運が高まり、1896年に初めての清国留学生13名が国費留学生として派遣されて以降、清国留学生の数は年々増加した(崔2007)。さねとう(1981)によると1901年には最初の清国女子留学生が渡日した 。女子留学生は帰国後、清末の中国における女性解放に貢献した。この時代、清国女子留学生を最も多く受け入れたのは、下田歌子(1985-1936)(以下歌子と表記する)が設立した実践女学校であり、ここは清国女子留学生の中心校であった。本稿では歌子の清国女子留学生教育の理念と、実践女学校での留学生受け入れ制度についてまとめることにする。

 

2.清国女子留学生の渡日背景と歌子の清国女子留学生受け入れの理念
 19世紀末の清国では「女子、才無きはこれ徳なり」と女性は教育の対象から外されていた(岩沢2001)。さらに、女子留学生のほとんどは纏足であった(岩沢1993)。しかし、維新派が「強国保種」と唱えて女子教育を発展すべきだとし、女性教育を担当できる女性教師を育成することや、日本での良妻賢母の女性教育が清国での女性身分と似ていたということもあり、日本への留学が進められた(張2018)。
 歌子は創立3年目の1901年に実践女学校で最初の清国留学生を受け入れ、翌1902年には4名の留学生を受け入れたことで、実質的な留学生教育が始まった(岩沢2001)。その後、1人の清国女子留学生の在籍があった1920年まで、国内で一番多くの清国女子留学生を受け入れてきた(上沼1983)。以下、実践女学校の設立までの流れ、歌子と清国のつながりの2点について述べる。

2-1.歌子と実践女学校の設立
 歌子は幼少期から学問、詩歌を学び、1885年からは華族の女子教育に従事してきた。1893年の欧州視察後には、社会下層にまで女子教育を普及させる事業に乗り出し(陳2006)、帝国婦人協会を立ち上げ、大衆婦人の教育と生活改善をはかった。その一環として1899年に実践女学校を設立した(岩沢2001)。校名の「実践」は、「学問を実際に役立て実行する」という意味で、実践的能力の開発にも意を注いだ(崔2007:149)。

2-2.歌子と清国
 歌子は欧州視察を通して、「東漸する西欧文明に対応するためには、『東洋女徳の美』という精神性を、日本だけでなく、東アジア全体と連携して守っていかなければならない」(陳2006:92)と女子教育の理念を東洋全体で抱くようになった。岩沢(2001:98)は、「歌子が清国女子留学生教育を実践するに至った理念として、①日清戦争以前から国際関係の中で、日清連携の重要性が念頭にあったこと、②歌子自身のなかに女子教育をとおして中国の近代化に協力したい」という意思があったことをあげている。歌子が家族女学校校長時代には、日本の女子教育を視察に来た呉汝論と交流を持ち、中国の女子教育について演説をさせ、雑誌に掲載したこともあった(薫2013)。
 また、歌子は実践女学校設立以前から周囲の教員を選抜し、中国語を習得させており、歌子自身も日本で清国留学生に中国語を習い、来日した清国の教育施設官僚や他校の留学生と親交があった(韓2014)。さらに、上海に新作社という出版社を設立し、日本書籍の中国語への翻訳出版事業を行っていた(岩沢1993)。歌子の清国の女子教育への関心の高さがうかがえる。

 

3.実践女学校における留学生教育
 1901年からの留学生受け入れから明治末までの清国女子留学生教育について、江藤ら(1991)や上沼(1983)の先行研究を参考に三段階に時代をわけて以下で述べていく。

3-1.初期女子留学生(1901-1904)
 まず、銭豊保が父兄と共に1900年に来日し、私費留学生として翌1901年に実践女学校に入学した(江藤ら1991)。彼女は、すでに日本語も話せることができ、授業を受ける際にもほかの学生と変わらなかったという(故下田校長先生伝記編纂所1943)。しかし、1902年に留学に来た女子学生は、まだ日本語も充分に解せる状況でなかったため、この時期の女子留学生は日本語を勉強していた(江藤ら1991)。この年に「清国女子部」を開発し、最初の留学生が卒業した(上沼1983)。朴(2013)は、授業開始当初の8か月間は、授業内容を漢訳したプリントを配布するほか、通訳を付けることも必要だったとしながらも、この時期の女子留学生は一定の知識がある上層階級の女性であったとは述べている。

3-2.中期女子留学生(1905-1907)と速成科
 1905年には、湖南省より女子模範留学生20名が入学することになり、本校からは離れた洋館を借り、「清国女子速成科規定」が制定された(江藤ら1991)。修身(道徳)の授業では、歌子が週1時間担当し、日本語教育という点では、読書、会話、作文の授業が行われていた(岩沢2001)。読む、書く、話す、聞くの4技能に配慮されたものであったことがわかる。岩沢(1993)は日本語の教授法については、文法訳読方式(翻訳法)がとられていたとしている。また、坂寄美都子と松本晴子の二人は、留学生たちと寝食を共にし、日本語や中国語の相互学習に努めた(上沼1983)ともあり、日本語習得を促進させたのではないかと考える。

3-3.後期女子留学生(1908-1911)
 1907年からは質を高めるために、清国留学生教育を反省し始め、1908年には「外国留学生規定」が制定された(江藤ら1991)。日本語関連の授業は、師範科の第1年生で週14/32時間(全体の44%)、第2学年は週10/34時間(全体の30%)、第3学年は週7/34時間(全体の21%)となった(岩沢1993)。学年が上がるにつれて、日本語の授業は減っていくものの、第1学年では日本語学習の時間が多く持たれていることがわかる。1909年、1910年は実践女学校における女子留学生がピークを迎え、2年間の留学卒業生は67名であった(江藤ら1991;上沼1983)。

 

4.おわりに
 歌子について様々な分野で研究されているものの、本稿では「日本語教育」に関わる点として、実践女学校での留学生教育に焦点をあてた。そこから、歌子が確固たる理念の上で清国女子留学生の教育を行っていたことがうかがえた。さらに、実践女学校での留学生受け入れ制度では、時代や留学に来た学生の日本語力やニーズに応じ変化してきたことも明らかになった。今回、どのような日本語教材を使っていたのかに関して先行研究や一次資料が見つからなかった。今後は、秋瑾といった実践女学校へ留学していた学生の視点から資料を探し、この時代の「日本語教育」について探っていきたい。

 

【引用文献】
崔淑芬(2007)近代中国における女子留学『筑紫女学園大学・短期大学部人間文化研究所年報 』18,141-155.
陳姃湲(2006)『東アジアの良妻賢母論―創られた伝統―』勁草書房.
薫秋艶(2013)日清戦争後中国女子教育普及に向けた日本教育界の働きかけ―呉汝論の日本教育視察(1902)をめぐって―『九州大学大学院教育学コース院生論文集』13,1-14.
江藤恭二・王鳴・肖朗(1991)日本における清国女子留学生に関する一考察-近代の日中文化・教育交流史研究-『名古屋大學教育學部紀要教育学科』38,313-323.
韓韡(2014)清末における下田歌子著『新選家政学』の翻訳・出版について『言葉と文化』15,11-29.
岩沢正子(1993)女性の自立と日本語教育-日本語教育史の中の下田歌子-『実践国文学』43,54-76.
岩沢正子(2001)清国女子留学生教育と実践女学校-留学生教育を担当した坂寄美都子の講演会記録を参考に-『マテシス・ウニウェルサリス 』3(1), 93-113.
故下田校長先生伝記編纂所(1943)『下田歌子先生伝』故下田校長先生伝記編纂所.
朴雪梅(2013)『江蘇』の「女学論文(文業)」から見る清末における日本留学女子学生の女子解放思想『言葉と文化』14,93-111.
さねとうけいしゅう(1981)『中国留学生史談』第一書房.
孫東芳(2017)女学校の創設と明治国家 : 下田歌子と津田梅子の比較を中心として『文化交渉:東アジア文化研究科院生論集』7,217-232.
上沼八郎(1983)下田歌子と中国女子留学生--実践女学校「中国留学生部」を中心として『実践女子大学文学部紀要』25,61-89.
張淑婷(2018)『中国新女界雑誌』に見られる日本的事象『東アジア文化交渉研究』11,79-94.

©2014 Yoshimi OGAWA