清国女子留学生
楊 茹瑩
0. はじめに
清国留学生は、近代中国の発展に不可欠な存在である。当時男尊女卑の清国の中で、一部な女性もそのチャンスを掴んで、日本に来た。日本の実践女学校を巡って、新国女子留学生の生活を簡単に紹介したいと思う。
1.日清戦争後清国留学生の来日の背景
① 日本の政府高官・政治家・軍人による盛んな日本留学への勧誘。当時の駐華公使矢野 文雄が外務大臣に「我国ノ感化ヲウケタル新人材ヲ老帝国二散布スルハ、後来我勢力ヲ東亜大陸二樹植スルノ長計ナルベシ。」という内容の上申書に端的に語られている。
➁ 清朝政府が日本留学を奨励したこと。日清戦争に敗北し、西欧列強による国土分割の危 機に直面する清国は、日本を通して西洋の近代文明を摂取し、近代化に必要な、多数の教員・陸軍士官・行政官などの人材を速成的に養成しようとした。
③ 科挙制度の廃止。張之洞の提案により、留学帰国者には科挙にかわる資格が与えられた。個人的利益につながったことが、私費留学生の増加をもたらした。
④ 日露戦争での日本の勝利が清国の革命の志士のたちを喜ばせたこと。彼らにとって、日本の勝利を専制政治に対す立憲政治の勝利、白人に対する黄色人種の勝利、清朝打倒の正当性の証明であった。
2.当時の中國女性像
2.1清国の輿論と制度
① 「女子、才無きはこれ徳なり」 女性は教育の対象から外されていた
➁ 「若い女性は断じて徒党を組み学校に入り、市街を歩き回ってはならない」『蒙養院(幼稚園)規則おとび家庭教育法規則』
③ 纏足 女性の自由な身体的活動を抑え、精神的にも男性に従属させるもの(秋瑾を含め日本に来た清国女子留学生の多くは纏足であった。)
2.2 日本の女性雑誌における中国女子教育に関する記事
① 足を縮めて、重に室内生活にて、其の母又は待女より裁縫、料理、諸礼、諸式を学ぶ。
➁ その妹娘に読書、習字を教へ得るは、非常なる富豪か、あるいは高位高官の人でなければならぬ、中等社会以下の婦人はことごとく無識無筆と称するも過言にてはない。
③ 上流社会においては、読書習字を教えているとはいえ、我が国の如く立派なる女学校の設立あるにならぬ、各々教師を自宅に聘して、三字経、千字文、女四書、女孝経などを読むことと習字のみにて、数学、科学の研究は思いも寄らぬ。
3.呉汝綸の視察と女子教育制度化の進め
清末の新政「育才興国」を実施するため、欧米あるいは日本への視察が必要である。教師大学堂総教習呉汝綸はその任務を引き受け、日本の教育視察に臨んだ。そもそも清国の教育改革は男子のみ対象としていたことであった。しかし日本に来た呉は女子教育の視察も行い、しまも女子教育制度の必要性を管学大臣に説得しようとするまでに至った。
呉は1902年6月20日から10月20日まで四か月間日本の教育を視察した。長崎に到着すると、長崎県視学官や新聞記者などが待っていた。その後、至るところに地方知事や視学官が同行し、様々な学校に連れて行った。特に女子教育に関しては、文部省は呉のために19回にわたって講義を行い、内容は女子教育に関わる行政、教育大意、衛生、管理法、教授法、設備及び学校沿革などであった。つまり日本側は呉の視察に対して積極的に日本の教育情報を提供した。
(新聞記事による抜粋)
「氏が最も感服せし処のものなるが如く至るところ女学校設けられ、妙齢の児女が上下貴賤を問はず争ふて学に就くの実況は毎に氏が傍人に対して称賛しておかざるところなり」
そのほか、前山陽高等女学校校長 望月興三郎は呉と面会し、女子教育普及は「国家概念」に関わる「愛国心涵養」の「近道」だと語った。
「蓋し女性はもっとも愛情深い身である。しかし、これまで女性の愛情は一人や一家族に注ぐのみで、一人も国家に愛情を注ぐことが知らなかった。ゆえに、国家とは何か知らない、国際形勢もしらない。もし女性にも愛国の心を育むようとするのならば、教育の力を借りなければならぬ。女性に教育を受けさせ、愛国人を富ませることで、将来、母となった彼女達から生まれた子どもも感化され、必ず愛国者となる。愛国心の涵養は家庭での教育に勝るものなし。女子教育実施の意義がここにある。」(呉汝綸『函札筆談第四』による)
4.実践女学校と清国女子留学生教育
4.1 下田歌子
1854年 岩村藩生まれ 幼名 平尾鉐 父は尊王思想を持つ岩村藩士
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藩内勢力争いのため、隠居謹慎を命ぜられ、不遇な日々を過ごす。
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女性の自立、自尊や不屈な精神を育んだ。
1872年 宮中に出仕 皇后に歌才を認められ、歌子の名を賜った
1885年 皇后の令旨により華族女学校が設立
1894年 皇女教育及び各国女子教育状況視察のため ヨーロッパに遊学
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①アジアの置かれた国際情勢を客観的に考える機会を与えた
中国を「兄弟の国」としてとらえ、欧米列強のアジア侵略に抵抗するために日本と中国は連携しなければならない、両国が争うことは欧米列強に「漁夫の利」を得させるものだと考えていた。
➁大衆婦人の教育こそ国家発展の基礎である
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1899年 「帝国婦人協会」を設立 雑誌『日本婦人』を発行
1899年 大衆婦人の教育と生活改善事業の一環として、実践女学校を設立
1902年 実質的に清国女子留学生を受け入れた
4.2 実践女学校
4.2.1代表的な女学校
日本で清国女子留学生の教育とかかわりのある学校は実践女学校が一番早い。開校以来合計200名以上の生徒を受け入れた。日本で最も多い学校である。そして受け入れ期間は13年間で、その時期で一番長い学校である。
4.2.2 生徒構成:
① 構成男子留学生の同行者
湖南省、奉天省の師範学校の公費女子留学生
私費女子留学生
➁ 14歳から53歳まで40歳の年齢差、親子関係のある生徒もあった。
4.2.3 教育組織の概要
①「清国女子速成科規程(1905年)」
課程 | 教育期間 | 概要 | 教育内容 | 入学資格 | 授業料 |
速成科 | 2年 |
12教科 週36時間 |
修身 読書 会話 作文 算数 地理 歴史 理科 図画 唱歌 体操 手芸 |
漢文の素養が ある事のみ |
入学金は2円 授業料は一か月3円 |
特別科 | 1年 |
12教科 週28時間 |
修身 教育 心理 理科 歴史 地理 算数 図画 体操 唱歌 日語 漢文 |
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工芸速成科 | 2年 |
9教科 週28時間 |
特別科目 術科(編み物 造花 図画 刺繍) |
➁「外国留学生規程(1908年)」
・速成科廃止;中等科、師範科の増設;修学年限と授業時間の増加
・入学資格の詳細化「在東京の本国人の保証人」「品行方正」「公使館の紹介書の有る者」
・年齢制限
・各科目の授業内容の変更と新設科目
4.2.4 教科学習と日本語学習の平行進行
① 教師自身が中国語を学習し中国語で教える
➁ 徐々に授業中に日本語の割合を増やしていく
③ 教材の漢訳と『和文教科書』(付録)
4.2.5 寮生活
日本人教官と寝起きを共にする日常生活の中から日本の文化、言語を習得するに留まらず、寮生活は清国女子留学生に自立と自覚を促す一助にもなった。
5. おわりに
自らの力で営んだ生活経験や「体操」を通して得た身体の健全な発達の重要性の認識をきっかけとして、中国女子解放思想が芽生えた。その後秋瑾のような有名な女性革命家が誕生し、中国の政治進歩に強力な助っ人となった。
参考文献
岩沢正子(2001)「清国女子留学生教育と実践女学校--留学生教育を担当した坂寄美都子の講演会記録を参考に」『マテシス・ウニウェルサリス』 3(1)、 pp.93-113、獨協大学
董秋艶(2013)「日清戦争後中国女子教育普及に向けた日本教育界の働きかけ : 呉汝綸の日本教育視察(1902)をめぐって」『飛梅論集 : 九州大学大学院教育学コース院生論文集』 (13)、pp.1-14、 九州大学
朴雪梅(2013)「『江蘇』の「女学論文(文業)」から見る清末における日本留学女子学生の女子解放思想」『言葉と文化』(14)、pp.93-111、名古屋大学
下田歌子(1889)『和文教科書』早稲田大学図書館によるスキャンバージョンhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho02/ho02_00218/ (古典籍総合データベース 早稲田大学図書館)
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